甘いタリウムは必然の香(37)了

  エピローグ


 梅のつぼみが膨らみかけ、色づいた枝から香りが漂う二月下旬の日曜日。
今日もベイカー街の客は少なく、ゆったりとした空気が流れている。

 マスターはいつもと変わらずサイフォンバーナーの炎を自在に操り、美味しいコーヒーを淹れている。
 マスターの行動には謎の部分もあるが、ホームズが深追いしないのであれば、「謎は謎のままがいい」ということなんだろうと有田は思うことにした。

 美里は、以前にも増して明るく元気にアルバイトをしている。第一志望の大学に合格し、四月からは有田とホームズの後輩になることが決まった。
 同時に、姉である麻紀と同居することになっていて、新居の手配や引っ越しの準備で忙しい中にも嬉しそうだ。新居は原宿からほど近い場所を確保できたらしく、ベイカー街でのアルバイトも続けられる。

 当然、麻紀も頻繁にベイカー街を訪れるようになっていて、オレンジジュースだけでなく、時々はコーヒーを注文するようになった。ホームズお勧めの『ブラウンシュガー入り』だが、最近はコーヒーの美味しさがわかってきたらしい。
 美里から、「お姉ちゃん」と呼ばれて振り向く姿はなんとも微笑ましい。十六年間の空白を埋めるかのように、何を見ても何を聞いても一緒に笑っていて仲がいい。この姉妹を見ていると、過去に囚われずに今を生きることの大切さがよくわかる。

 彩花は最初、十六年前の出来事を気にしてベイカー街に来るのを遠慮していたが、ホームズがことあるごとに彩花を呼び出し、山科からの手紙を見せて話をしている内に、原宿に来た際には必ず立ち寄るようになった。
 彩花も「ミサトさん」と呼ぶことから、美里もすっかり懐いている。


 山科の裁判員裁判は来週から始まる。殺人罪二件に加え、爆発物取締罰則違反で起訴されており、よほどのことがない限り極刑を免れることはなさそうだが、面会したホームズによると、「控訴しない方針」だそうだ。
 毎日、拘置所の中で静かに読書をしていて、「山科さんらしい余生を送る覚悟ができている」らしい。

 剣崎は、重い十字架となっていた十六年前の真相がわかり、少しは肩の荷が下りたようだが、このまま第一線での捜査は続けるそうだ。ホームズの推理力にすっかり惚れ込み、ベイカー街へも頻繁に足を運ぶようになった。
 二階の事務所に集まって、ホームズの意見を聞きながら捜査方針を指示する剣崎を見ていると、ここが名実ともに警視庁のベイカー街分室にでもなったかのような錯覚に陥る。

 野沢は、相変わらず美里にぞっこんで、美里が大学に合格したときには自分のことのように涙を流して喜んでいたが、山科にタックルしたときの武勇伝を何回も自慢するものだから、少しそっぽを向かれかけているのに気づいていないところが痛々しい。

 今日はまだ、麻紀や彩花など新しく加わった常連は来ていない。一平やリサや野沢などが揃った賑やかな捜査会議を行なうベイカー街もいいが、有田は静かな時間が流れるのどかなベイカー街が一番のお気に入りだ。


 ……カラン、カラン……

 カウベルを鳴らして入ってきたホームズが、何も言わずに有田の隣に腰を下ろした。

 少し太めの眉に大きな丸い眼鏡で、今日も白いブラウスをジーンズにシャツインしている。肩から纏ったケープも相変わらずだが、あの事件以来一番大きく変わったのは、なんといってもホームズだ。
 薄いファンデーションとリップグロスだけでも、軽く化粧をするようになったのだ。今日のリップカラーは淡いけれども存在感のあるピンクで、春を連想させる薄緑色のケープによく映えている。

 窓から覗く街路樹の若葉が東風を受けて、春を手招きするように揺らめいている。

 サイフォンロートの中で踊る粉末コーヒーを見つめているホームズの横顔は、若葉の隙間をくぐり抜けて輝く午後の陽射しに負けないくらい眩しい。

「十二年か……」
 ホームズがそう呟いたように聞こえた。
「え?」
 有田の問いかけにホームズは、「何も言ってないわよ」という顔を返してきたが、有田もまさにそのことを考えていたので驚いた。

 有田がホームズと出会って十二年を迎えようとしているのだ。有田の公式プロフィール的には『彼女いない歴三十年』を更新中であるが、自分的には、十二年前にピリオドが打たれていたことにしてもいいのかなと思うこの頃だ。


 ホームズのコーヒーがカウンターに置かれ、いつものようにブラウンシュガーを二個入れる。ホームズがカップを口に運ぶタイミングを見計らって、有田もコーヒーをひと口飲んだ。

      (了) 

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