甘いタリウムは必然の香(29)

 第七章 十六年前の真相 

  1.四日前の続きから


 最近の秋は短くなったように有田は感じていた。
 つい先日まで残暑に苦しめられていたはずなのに、太陽が雲に隠れただけで漂う空気が冷たい。
 しかし、今日の有田は、温度下降と反比例して意識が高揚していた。

 有田は、警視庁本部で野沢と打合せをした後、はやる気持ちを落ち着かせてひとりベイカー街へと向かった。
 ベイカー街へと続く坂道にある街路樹も、紅葉の見頃を慌ただしく閉店しようとしているようで、冬の訪れがすぐそこまで来ていることを示しているようだ。


 ドアを開けると、いつものカウンター席にホームズがいた。

「ホームズ…………」
 有田は瞼の裏にこみ上げてくるものをぐっと堪えた。
「あら未明君、早いわね」
 ホームズが明るい声で振り向いた。見るとホームズにすがりつくようにして泣いている美里がいた。

 美里も朝からホームズを待っていたようだ。まだオープン前のベイカー街はしんとしていて、美里の泣き声だけが響いていた。
「大丈夫なのか? もう歩けるようになったのか」
 有田が心配そうな声で尋ねると、
「大丈夫よ。こんな傷は大したことないわ」
 ホームズの言った言葉の意味が一瞬わからなかったが、なるほど額や手の甲にいくつか絆創膏があるのに気づいた。
「ちょっとね、鶏さんや山羊さんと格闘した名誉の勲章なのよ」
「いや、そうじゃなくて……意識不明で入院していたんじゃないのか」
「あ……」
 ホームズは、いたずらを見破られた子どもの表情で肩をすくめた。
「ごめんなさい。それは後で皆さんが揃ってから話すわ」
 それから厨房に向きなおって声をかけた。
「マスター、悪いけど今日は『貸切り』にしてもらえるかしら」

 四日ぶりに見るホームズの顔色はいいようだ。額の絆創膏がより一層健康さをアピールしているようにも見える。普段と違う雰囲気に見えるのは、いつものタータンチェックではなく、真っ黒一色でサテン生地のケープだからだろうか。有田としては初めて見るものだったので少し違和感を覚えた。


 約束の十一時までには、彩花も麻紀もベイカー街に来たが、有田が一番驚いたのは剣崎がやって来たことだった。
「管理官。どうしてここに……」
「女探偵さんに呼ばれてね」
 剣崎は憮然と言い、コートを脱いだ。
「さあ皆さん、奥のテーブル席に座りましょう。今日は貸切りにしていただいたから、マスターもコーヒーを淹れたら一緒に話を聞いてくださいな。麻紀さんはオレンジジュースでいいかしら?」
 ホームズは、とても昨日まで集中治療室で昏睡していたとは思えないくらい元気に仕切っている。

 奥のテーブルの指定席にホームズが座り、その横に有田が座った。そうして自然と四日前の最初と同じ席順で彩花と麻紀も席に着いた。隣のテーブルに剣崎と美里が向かい合わせで腰を下ろしたとき、扉のカウベルを鳴らして山科が入ってきた。今日の山科はスーツ姿ではなく、軽快な服装でスポーティなブルゾンを羽織っている。

「やあ、皆さん。遅くなりました」
 山科は陽気な声でテーブル席にやってくると、両手に抱えた大きな紙袋を置いた。
「ホームズさん、退院おめでとうございます。大変な目に合いましたね」
 愛想のいい満面の笑顔で、綺麗にラッピングされた鉢植えを慎重に袋から取り出してホームズに手渡した。
「わあ! 山科さん、ありがとうございます。綺麗な福寿草ですね」
 鉢ごとビニールで覆われていて、ピンクのリボンがかけられたその花は、透き通るように鮮やかな黄色い花を咲かせていた。
「ああ、甘い匂い。福寿草の花言葉は『幸せを招く』なんですよね。私だけでなく皆さんに幸せが訪れると素敵ですね。ありがとうございます」
 礼を言うと、自分の横の出窓部分に飾るように置いた。

 山科は空いている剣崎の隣に腰を下ろした。
「お揃いになりましたので、先日の話の続きをしましょうね」
 ホームズが皆を見回してからおもむろに話し始めた。
「まず皆さんに謝らなくてはいけません。特に警察の方……剣崎警視をはじめ未明君にも嘘をついていました」
 ホームズは立ち上がって深々と頭を下げた。

「実は私、昨日まで入院してなんかいなかったんです。ミサトさんにもたくさん心配かけてごめんなさいね。山科さんには退院祝いのお花までいただいたのに申しわけありません。お花……お返ししましょうか」
 ホームズの言葉に剣崎以外の全員が驚いていた。有田も初めて聞いて驚いたが、ホームズの言葉の最後の部分に対する違和感の方が大きかった。
「そうなんですか。昨日こそ有田刑事と『三日間も意識不明で昏睡していたら記憶も錯綜するだろうな』って話していたのですよ。あの……もしかしたら今も入院していた記憶がなくなっていて覚えてないわけではないですよね。あ……いえ、そうだとしても花は受け取ってください」
 山科も驚いていたが、狼狽しすぎじゃないかというくらい慌て気味なのが、山科らしくないように思えた。

「記憶が飛んでいるかどうかは後でお話します。実はこの三日間、北アルプスにある小さな集落に行っていたんですよ」
 ホームズが静かに言ったとき、美里が反応した。
「北アルプス……?」
「そうよ。ミサトさんのおじいちゃんとおばあちゃんに会ってきたわ。とっても優しくて元気なおじいちゃんとおばあちゃんね」
 美里は「信じられない」という表情で、丸い目をさらに真ん丸に開いている。
「そうそう、おばあちゃんにミサトさんが大好きだっていう『キノコスープ』と『里芋の煮っ転がし』の作り方を習ってきたわ。煮っ転がしは今度材料を揃えてから一緒に作りましょうね。キノコスープは夕べ作っておいたので後から皆さんでいただきましょう。このキノコスープは、ミサトさんのお父さんとお母さんも大好きだったみたいよ」
 ホームズが優しく美里に語りかけ、コーヒーを運んできたマスターに容器を渡し、温めるよう頼んだ。

「父や母も好きだったって……。おばあちゃんは私には教えてくれなかったわ。ホームズさんは両親のことも聞いたんですか」
 美里は少し取り乱している。
「そうね。いろいろと聞いてきたわ。ミサトさんのご両親は、十六年前に交通事故で亡くなった烏丸幸次さんと香織さんです」
 ホームズは、美里を気遣いながらも、皆を見回しながらハッキリした口調で言った。
 そのとき、山科と麻紀の額に汗が浮き出ているのを有田は見逃さなかった。

 少しの沈黙の後、彩花が思い出したように口を開いた。
「烏丸香織さんっていうとあの……」
「そうです。彩花さんのお話し相手をしていた香織さんですよ」
 ホームズが頷いた。
「えっ、やっぱり……先日、かわいいウェイトレスさんを見たときに、どこかで見た顔だと思ったら香織さんにそっくりなんだわ」
 彩花は両手で口を塞ぎ、山科の方を見た。
 山科は、今初めて気づいたように、
「美里さんがあの烏丸幸次さんのお嬢さんでしたか……。僕も大変お世話になっていたけど、突然の交通事故で奥様と一緒に亡くなってしまって本当に残念でした。そうすると、お葬式のときにおばあちゃんの膝の上で無邪気に遊んでいたお嬢さんがこんなに立派になっていたんですね」
「どうして? 山科さんや彩花さんがなぜ両親を知っているんですか? 私は何も知らないのに……」
 美里は今にも泣き出しそうだ。
 ホームズは美里を優しく見つめた。
「ミサトさん、ごめんなさいね。今日は十六年前の『交通事故だと処理された件』をどうしても話さなきゃならないの。辛い話になるかもしれないけど、聞いてほしいの」

 ホームズが、『交通事故だと処理された件』の部分をわざと強調したように聞こえた。

「彩花さんはご存知ないかもしれませんが、その頃の倉見代議士は収賄の容疑で特捜の対象になっていたんです。そうですよね、剣崎警視」
 突然名前を呼ばれた剣崎は一瞬驚いたそぶりを見せたが、それ以上に驚いた顔をしたのは、隣に座っている山科だった。


「いまだに思い出すと苦々しい出来事だ」
 憮然として口を開くと、剣崎が事件の概要を話し始めた。

      (続く)

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