甘いタリウムは必然の香(9)

 第二章 ふたり目の犠牲者

  1.謎の転落死


 十月十七日、月曜の朝。有田が捜査会議の席上で、真鍋への張り込みを提案しているときだった。

 電話を受けた捜査員からのメモを見ながら、管理官の剣崎が有田の言葉を遮るように手で制した。
「有田君、残念だが真鍋を張り込む必要はなくなったようだ。さっき品川埠頭で真鍋の水死体が見つかった」

 有田はその場に立ち尽くしたまま唇を噛みしめた。
 真鍋は昨夜の内に行動を起こしたのだ。
 犯人に心当たりがあって接触したのか、逃げ切れないと悲観して自殺したのかわからないが、有田とホームズの行動が命取りになったのは間違いない。
 これまでの経験から、ホームズの心理操作による必然性の誘導をいやというほど見てきているのに、今回は、「まだ大丈夫だろう」と油断した自分を悔いた。ホームズによる再聞き込みもできなくなってしまったではないか。

「有田君が真鍋の張り込みを提案したのは、例の女探偵さんの推理によるものかね」
 剣崎の目が縁無し眼鏡越しに鋭く光り、皮肉たっぷりに追求してきた。頭の回転が鋭い剣崎を、有耶無耶にして誤魔化せるものではないことは有田もわかっている。
「そうです。昨日、結城と一緒に真鍋を訪ねた際に、真鍋が嘘をついていると感じたのです」
「なぜ、そのときすぐに捜査本部やわたしに連絡して、真鍋に見張りをつけようとは思わなかったのかね」
「すみません。昨日は捜査本部も久しぶりの休日でしたから、今日の捜査会議に提案するので間に合うと油断してしまいました。申し訳ありません」
 有田は厳しい叱責を覚悟で素直に謝罪した。非は非として素直に謝るしかない。
「間に合うかどうかを判断するのは私だ。せっかくの情報を台無しにしてしまっては元も子もないではないか」
 剣崎の口調がいつもより興奮気味に厳しいのは、過去に証人を死なせた事件があるからだと察せられた。状況は違うだろうが、剣崎の無念さがわかる思いがして、もう一度深く頭を下げた。

「真鍋の昨夜の様子はどんなだった?」
 口調が変わったと感じて頭をあげると、いつもの冷静な顔をした剣崎だった。
「これまでと同じく飄々とした応対だったのですが、結城が問いかけた『さなえの女将にまとまった収入の予定があったのでは?』との言葉に真鍋が異常な反応を示したのです。犯人に心当たりがあるようでもあり、尻尾を掴まれたと焦ったようでもあり、結城も『あとひと押し』と考えたようです」
「緊急性は感じられなかったのか」
「はい。この二週間の動きと合わせても、まさか昨夜のうちに何らかの行動を起こすとは、思いませんでした」
 剣崎が少しの間目を閉じ、十数秒後に開いた口調は穏やかだった。
「わかった……これまで動きがなかったのだから油断したとしても仕方がない。女探偵さんのおかげで事件が動き出したのかもしれないしな。これが連続殺人事件であれば犯人像も絞られるし、人海戦術を行なうより捜査員の疲れも軽減できる」
 有田は剣崎の言葉に涙が出る思いとともに、絶対に犯人を許さないと心に誓った。

 剣崎は捜査員全員に向かって、
「連続殺人事件の線でも捜査するが、決めつけてはダメだ。所轄からの報告によると、真鍋には目立った外傷がなく、現時点では自殺や事故もありうる。くれぐれも先入観を持たないで慎重に捜査を進めてくれ」
 と締めくくり、捜査会議は終了した。

 真鍋の死体が発見された埠頭は、会社から五百メートルほどしか離れていない場所だった。倉庫が数棟並んでいるだけで、トレーラーが行き交えるほどの道路が縦横に広がっているが、今は貨物船が接岸していないため、広いだけの道路が荒野のようにも見える。その荒野をパトカーと警官が慌ただしく走り回っていた。有田が見渡した限りでは、付近に防犯カメラの類はないようだ。
 埠頭に引き上げられた真鍋は、ジーンズにジャンパーを着ていて、昨夜見た作業服姿ではないことから、ホームズと訪ねたすぐ後なわけではないのだとわかった。所持品が隣のビニールシートの上に置かれていて、免許証や携帯電話の隣に財布と中身も並べられていた。ざっと見て五万円以上の現金が手つかずで残っているということは、事件だとしても物盗りの犯行ではなさそうだ。免許証が残されていたことですぐに身元が割れて、女将殺しの捜査本部にも連絡が入ったのだろう。

 有田は、所持品の中に折り畳み式ナイフを見つけた。
「このナイフはどこにあった?」
 所持品の横で見張り役として立っている制服巡査に尋ねた。
「はっ。ジャンパーの右ポケットにありました」
 若い巡査がかしこまって答えた。
「刃は出ていたのか」
「いえ、折り畳まれた状態でした」
「そうか、ありがとう」
 有田が片手を挙げると、若い巡査は憧れの眼差しを向けて敬礼した。
 そこへ、野沢が手帳を片手に走り寄ってきた。
「先輩、向こうで第一発見者の話を聞けるようになりました。ご高齢なんで短時間でお願いしますとのことです」

 第一発見者は、この埠頭に釣りにきていた植木隆博という七十五歳の男性だった。都心の上場企業を定年退職して悠々自適な隠居生活を送っているらしい。
「見つけたときの状況を教えてください」
 野沢が手帳を開いて質問を始めた。
「さっきのおまわりさんにも話したけど、わしが糸を垂らしているところへプカプカと流れてきたんで驚いたよ」
 まだ興奮覚めやらずの植木は、手の先の震えが止まらないようだ。
「植木さんは何時からここにいらっしゃったんですか」
「家を出たのが六時頃だったから、七時前にはここに着いていたんじゃないかな」
「そのときには他に誰かいましたか」
「いや、誰もいなかったんで特等席を確保できたんだ。あそこは潮目が集まるところだからプランクトンや小魚も寄ってきて一番釣れるんだよ」
 植木は、真鍋が引き上げられた岸壁を指さした。
「竿を出すときに、海面はご覧になりましたか」
「そりゃもちろん見たさ。ゴミは少し浮かんでいたけど、死体はなかったよ」
「それから発見まで何分くらいでしたか」
「そうさなあ……。三十分くらいだったかの。背中とうなじが見えて、ひと目で人間だとわかったから、大慌てで警察に電話したんじゃ。慌てすぎて携帯電話を海に落とすとこだったよ」
 110番通報の受理時間が七時三十八分だったので、ほぼ記憶どおりのようだ。

 死体が流れてきたのか、この付近に沈んでいたものが浮かび上がってきたのか、司法解剖の結果を待つこととなった。この付近から落ちたのであれば、岸壁をよじ登ることが難しいと思われるくらい切り立った岸壁だ。
 そのとき有田は、埠頭の中ほどで動く銀色のダウンジャケットに気づいた。近づいてみると、ホームズが黄色いテープの外側を念入りに観察していた。有田が現場に向かう途中で一報を入れておいたのだ。

「ホームズ、今回は完全に黒星をつけちまったな。まさか昨夜のうちに真鍋が動くとは思わなかった。すっかり油断していたよ。すまん」
「そうね……真鍋さんを助けてあげられなかったことが悔やまれるわ。でも未明君が責任を感じても仕方ないじゃない。明日のことは誰にもわからないのよ」
 ホームズの方が落ち込んでいるのかと思っていたが、反対に慰められた。しかし、平常心を装っているホームズも断腸の思いでいることは確かだった。
「今は、ふたりの死にどんな必然性があったのかを見つけることが最優先よ」
 頭を切り替えるのが早いホームズはスマホを取り出して、外灯の下の土溜まりにひっそりと生えている雑草の撮影を始めた。
「その草も事件と関係ありそうなのか」
「そうね……関係ないかもしれないけど、とっても珍しい種類なのよ。どこかから陸揚げされたコンテナに付いていたのだろうけど、こんな場所で育つなんて……。しかも不自然な形に残されていて面白いからSNSにアップしようかと思うの」
 ホームズの思考回路には着いていけないと首を振るしかない有田だった。


 その後の詳しい鑑識結果によると、死亡推定時刻は十月十七日の午前一時前後。死因は水を大量に飲んだことによる窒息死――すなわち溺死である。肺の中の水は、発見現場の海水と同じ成分であった。手や指に目立った擦過傷がないことから、岸壁をよじ登ろうとした形跡はなかった。おそらく海に落ちたときには既に意識がなかったか、覚悟のうえでの自殺だと考えられた。
 所持品はすべて真鍋本人のもので、バッグの類は持ち歩いていなかったことが従業員の証言でわかった。真鍋は酒を飲むと泥酔してしまい、これまでに何度もバッグや手荷物を失くしたことがあったため、今ではバッグの類を持ち歩かなくなったらしい。
 胃の中に残っていたのは、未消化のままのスルメとアルコールであった。その後に向かった真鍋の会社で確認したところ、社長席の机の上にビールの空き缶が三本とスルメの空き袋があったことから、ひとりで酒盛りをして帰宅したものと思われた。ひとり暮らしのため、一旦自宅まで帰ったのかどうかの確認は取れていない。
 致命傷となる外傷はなく、胸部や腕に打撲痕と擦り傷があったが、誰かに突き落とされたときにできた跡なのか、流されている間に付いたものかを特定することは困難だった。一番大きな問題は、真鍋がどこから海に落ちたのかが特定できないことだった。埠頭の岸壁であれば誰かと会っていた可能性が高いし、河口近くの橋から落ちたのであれば会社と自宅の間に位置しており、事故による転落死や自殺の可能性もある。港から橋までを徹底的に調べたが、落ちた場所の痕跡を見つけられないでいた。

 真鍋の自宅は品川駅の近くに立つ小ぶりなマンションで、五階建て最上階の角部屋だった。室内に目を向けると社長とは思えない質素な部屋で、八畳一間の一角に申し訳程度のキッチンを備えたワンルームだった。少し大きめのシングルベッドが目をひくだけで、小さなテーブルとタンス、板の間に直に置かれた薄型テレビくらいしか目立つ家具はなく、全体的な印象としても質素な生活を送っていたことがわかった。
 会社からも自宅からも遺書は発見されていないが、遺書を残さずに自殺する人も珍しくないことだった。事件と事故の両面から捜査することとなり、表向きには『連続殺人事件』とはならなかったが、有田は野沢やホームズらと連続殺人事件としての捜査を続けるよう剣崎から指示を受けた。
 真鍋は二十四歳からの八年間、倉見雄一郎代議士の運転手を勤め、十六年前の三十二歳で独立して運送会社を設立していた。交友関係は広くなく派手な趣味もなかったことから、会社関係者への聞き込みを重点的に行なうこととなったが、有田と野沢は運転手時代の線から洗うことにした。

 倉見は当時の与党の大物議員で、後に副総裁まで務めた。五年前に心臓発作を起こし、現職のまま亡くなったことが日本中のニュースになったので有田も覚えている。
 真鍋が倉見の運転手をしていたのは随分昔であり、今回の事件と関連があるのか不明だが、世田谷に住む倉見の未亡人を訪ねてみることにした。

      (続く)

登場人物が多くなってきました ^^;
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