謀略の狭間に恋の花咲くこともある #16

(第八話)『一杯の水』後編



 スーリたちの村は森の中にあって、十軒くらいの草葺の小屋が寄り添うように並んで暮らしている小さな村だった。
「こりゃ、骨折かもしれないから、町の病院に行かないとこれ以上の治療はできないね。今からじゃ山道を担架で運ぶのは危険だから明日の朝に町まで連れて行くよ」
 長老とおぼしき老人からそう言われたときには既に夕闇に包まれつつあったので、従うしかなかった。それでも、今日中に帰ると告げて出てきたことを話すと、若者が町まで走って、サントソに無事を伝えてくれるという。

 村人たちはみんな親切に傷の手当をしたり、痛いところをさすったりしてくれた。代わる代わる私の寝床を訪れては、
「あそこから落ちて生きているとは奇跡だ。神のご加護だ」
「あの山道から滑り落ちても、途中で引っかかってしまえば動くこともできなかっただろう。スーリたちに見つけてもらえたのも奇跡だ」
 などと話しながら果物などを置いていってくれた。
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」と尋ねたら、
「日本人はもっと優しいじゃないか。地震でこの村が壊滅状態だったときに、車も入って来ないこんな山奥の小さな村にまで来て家を建ててくれたんだよ」と、口々にお礼を言うのだ。
 2004年のスマトラ島沖の大地震の後に多くの日本人がボランティアに訪れていたことは、旅行の前に学習していた。津波の被害者を含めて22万人以上の死者が出た大災害だった。
 震災後で衛生状態が悪い中にも関わらず、多くの日本人が助けに来てくれたことで、村人から見ると日本人は神様と同じくらい崇拝の対象になっていたのだった。


 ふと気が付くと、小屋の入り口に町まで行ってくれた若者とスーリが立っていた。
 スーリには悪いことをしたと思っていたので、ずっと気になっていたけど村に着いてから姿を見ていなかった。

「ミサト。これ……」
 スーリが水の入った小さなペットボトルを差し出した。
「この水は?」
 戸惑いを隠せずに震える声で訊くと、横に立っていた若者が答えた
「さっき町まで行ったときに、スーリに頼まれて買ってきたんだ。村人はみんな湧き水や井戸水を飲むけど、ミサトには綺麗な水を飲ませたいって」
 口の周りを怪我していることを知っているスーリはコップを用意してくれていて、注ぐとちょうど一杯を満たす量だった。
「ミサト。飲んで」
 スーリは何事もなかったかのように水の注がれたコップを渡してくれたけど、受け取る手が震えていたのは怪我をしているせいだけではなかった。
 スーリの前で平然と飲むのは気が引けたけど、本当はずっと喉が渇いていて限界だった。薬草をすり潰した痛み止めと村人から戴いた果物だけは少し口にしていたけど、『水を飲みたい』という衝動はずっと続いていた。水も用意してくれていたけれど、スーリが山で汲んでくれた水と同じものだったので口をつけていなかった。
 スーリは私が水を飲むのを楽しみにしているように目を輝かせながら見ている。
「ありがとう」
 水を溢さないように受け取ると一口だけ飲んだ。……いや、一口だけのつもりだったけどコップ一杯の水を一気に飲んでいた。
 まさに命の水だった。世界中のどんな豪華な料理にも勝る美味しさだった。喉が渇望していたからだけでなく、ミネラルウォーターが澄んでいたからでもなく、何よりスーリの想いが込められた至極の味がした。
「すごく美味しい……」
 目の前がぼやけてきたけど、涙を流さないようにこらえながら言うと、スーリが満面の笑みを浮かべた。
「ミサト。早く元気になってね」
 と言いながら、可愛い花びらで作った髪飾りを私の髪に付けて帰っていった。


 その夜は一睡も出来なかった。体中が痛いこともあったけど、スーリが汲んでくれた湧き水と、コップの水が頭の中で渦巻いて寝付くことができなかった。
 翌日、明るくなると同時にサントソが迎えにきてくれていて、村人が町まで親切に運んでくれた。村を出る前にもう一度スーリにお礼を言いたかったのだけど、早朝だったこともあり子どもの姿は見えなかった。
 幸いにも全身の擦り傷以外は腰の打撲と左足の捻挫だけで済んだのは奇跡的だったけど、結局、残りの旅行日程は病院で過ごすこととなり、スーリに再び会いにいくこともなく帰国の途に就いた。

 家に帰ると、お姉ちゃんからこっぴどく叱られた。いくら親日派のインドネシアだからといってもひとりで山登りをするとは思わなかったらしい。せっかく撮影した小さな赤い花の群生写真も一瞥されただけだった。大きな花の写真は残念ながら写ってはいなかった。


 スーリが髪に付けてくれた『小さな花の髪飾り』は、押し花にして部屋に飾った。
 いつか、スーリや村人に恩返しをするんだと自分に言い聞かせるために……。


      (第九章に続く)



原作では、本編が終わったあとのスピンオフ的なストーリーでしたが、今回は本編に組み込んでみました。

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