甘いタリウムは必然の香(19)

 第四章 巣ごもり

  3.嬉しい誕生日


 翌日、有田がホームズの事務所に着いたのは夕方六時過ぎだった。

 前日にも増して、テーブルの上の資料はうず高く積まれ、壁の写真やメモ書きも増えていた。ホームズ本人ですら何を調べているのかわからなくなるのではと心配になる。
 それでもテーブルの一角にコーヒーカップとサンドイッチの皿を置けるスペースが確保されているのは、コーヒーを運んできた際に、美里がかいがいしく片づけているのだろうと想像できた。

「ホルモン焼き『チエちゃん』をやっていた大将の証言が取れたんだけどな……」
 相変わらずパソコンに向かっているホームズに話しかけた。
「静岡の古谷さんが話してた、鳥やすの所にあった以前のお店ね」
 ホームズはパソコンに向かったまま答える。
「烏丸幸次さんもチエちゃんの常連だったようで、烏丸さんが亡くなった日のことはよく覚えていたんだ。あの日の夜七時頃、チエちゃんの前まで男が車でやって来て、かなり慌てた様子で路地の奥へ走って行ったらしい」
「さなえの方にってことね」
「そうなんだ。置きっ放しにするのか気になっていたら車はスグに発進したんで、誰かが送って来たんだなと、そのときは気にも止めなかったらしい」
「運転していた人の顔は見てないの?」
「ああ、どっちの顔も見えなかったけど、両方とも男だったのは間違いないそうだ」
「よく十六年も前のことを覚えてたわね」
「翌日に他の常連から烏丸さんが事故で亡くなった話を聞いて、前夜の車は烏丸さんだったんじゃないかとずっと思っていたらしい」
「当時の警察には話したのかしら」
 ホームズがパソコンの手を止めて有田を見た。
「いや……当時の警察はあの辺りまで聞き込みには行ってないそうで……大将もわざわざ警察に行くほどのものでもないと思ったらしい……」
 有田の奥歯に物が挟まったような言い方に、ホームズが核心を突いてぼそりと呟く。
「その大将も警察が嫌いなんでしょ?」
「ああ、聞かれもしないのにわざわざ警察に協力する気はさらさらないそうだ」
 有田は大袈裟に肩をすくめた。

「ホームズの方は何か新しい発見があったのかい?」
「そうね、その烏丸さんだけど、単なる事故死なのか疑わしい点が出てきたわね」
「どんな点が疑わしいんだい?」
「まず、事故現場なんだけど、北アルプスの中腹を走る林道を夜間に運転していて、谷に転落したみたい。大きくは載ってないけど、長野県の地方新聞に小さく載っているわ」
「夜間の慣れない山道でハンドル操作を誤ったんだろ?」
「ところが同じ頃の倉見代議士は汚職疑惑の渦中にいたという記録がたくさん残っているのよね。そんな大変な時期に私設秘書が奥さんと、こんな山奥に行くと思う?」
「それは少し不自然だな……」
「もっと詳しく調べてみたら、事故現場の先には烏丸香織さんの育った実家があるってわかったわ」
 ホームズがさっきからパソコンと向き合っているのは、まさにこのことを調べている最中だったようだ。
「でも、今回の事件と関係あるのかな」
「今はまだわからないけど、『十六年前』っていうキーワードが気になるのよ」
「確かに十六年前ってのは、真鍋がさなえに通っていたのや、キノコスープがメニューから消えた時期と同じだけど、今回の事件と関係しているのか、さっぱりわからないよ」
「関係ないかもしれないけど、一旦気にかかりだしたらどうにも止まらなくなってしまったの……」
「ずっとパソコンばかり見ていたら疲れるだろう。たまには出歩かないか? 一緒にベイカー街で夕食でも食べようよ」
「そうね。もう四日も部屋から出てないし、外の世界を味わってみようかしら」
 引きこもり中のホームズにしては珍しく出かけるようだ。出かけるといっても二階から一階に下りるだけだが、これまでにない行動パターンに有田は少し驚いた。


 ベイカー街のドアを開けると、
「あっ、ホームズさん。もう引きこもりは終わりですか」
 美里が目を輝かせて、とびきりの笑顔で出迎えた。
「まだ終わってないけど、たまにはお店で食べようかなと思ってね」
 ホームズは、いつものカウンター席に腰を下ろしてたまごサンドを注文した。
 有田はベイカー街名物のドライカレーを注文した。

「山科さんとは、お会いになりましたか」
 マスターがおしぼりとスプーンをカウンターに置きながら話しかけてきた。
「いえ、今日は会っていませんよ」
 ホームズが怪訝そうに首を傾げた。
「そうですか……さっきまで奥のテーブル席に座ってコーヒーを飲んでいたから、てっきり有田さんかホームズさんを待っているのかと思っていました」
「そうそう、ホームズさんがいつも座る席にひとりで座って、手帳に何かを書き込んでいました。二十分くらい居たんですよ」
 美里も付け加えた。
「そうなの……」
 せっかくのたまごサンドを味わっているようでもなく、ホームズはそう呟いて何かを考えていた。
 ホームズが、山科に会えなかったのを残念に思っているのではないかと想像し、心の乱れを読み取られないよう黙り込む有田だった。


 十月二十八日、金曜日の夕方。有田が事務所を訪ねると、ホームズが待ち構えていた。
「未明君、ベイカー街に行きましょ」

 特にホームズと待ち合わせをしていたわけではないが、有田にも今日は特別の日だとわかっていた。本当はもう少し早く来る段取りをしていたが、なかなか予定通りに捜査を切り上げられなかったのだ。
 ホームズは有田を追い立てるように一階に下りた。

「ホームズさん、いらっしゃーい」
 美里がいつにも増して嬉しそうな顔で出迎えてくれた。
「ミサトさん、誕生日おめでとう!」
 ホームズは、ピンクのリボンが掛かった紙包みをカウンターの上に置き、美里に向き直って笑顔で祝福した。
「わあ! ホームズさんありがとうございます。何かしら……開けてもいい?」
 美里は普段からハイテンションだが、今日はいつも以上に興奮するのも仕方ない。
 美里が丁寧にリボンを取り、もどかしいように包みを開くと、中から明るい色のケープが出てきた。淡いオフホワイトの生地に薄いピンクのチェックがかわいく、カシミア製のようで、いつもホームズが愛用しているケープと色違いのお揃いだ。
「素敵……」
 美里はケープを愛おしそうに抱きしめて、今にも涙がこぼれそうだ。
「受験勉強で体を冷やさないようにね」
「でも……昨日で十八歳になったんですよね?」
「法律上はそうだけど、やっぱりバースデープレゼントは誕生日じゃなくっちゃね」
 ホームズが優しくウインクしながら言うと、
「さっすがホームズさん。未明君とは大違いね」
 美里がいたずらっぽく笑って有田の方を見た。

 有田は「コホン……」と咳払いをすると、
「はい、ミリちゃん。誕生日おめでとう」
 少し遠慮がちに紙袋を差し出した。
「えっ! 未明君もプレゼントを用意してくれてたの? 嬉しい……」
 子どもの様にはしゃいでいる美里に、ホームズが声をかけた。
「去年まで知らなくてごめんなさいね」
「ううん。私、自分の誕生日が嫌いだったから誰にも言ってなかったんです……」
 少し暗い表情になったが、紙袋の中を見てすぐに輝いた顔に戻った。
「わあ! ケーキだ。美味しそう。みんなで食べましょ」
 満面の笑みとケーキの箱を抱えて、美里が厨房に消えた。

 残された有田とホームズとマスターの三人は、美里の言葉に反応することができず、しばらく言葉を失っていた。現在の美里があまりにも明るいのですっかり忘れてしまいそうになるが、美里は幼い頃から苦労してきており、「自分の誕生日が嫌い」と言うほど嫌な思い出がたくさんあるのだと改めて思い知らされた。

 やがて美里がいろんな種類のケーキを小皿に乗せて持ってきた。
「どれも美味しそうですよ。ホームズさんはどれが好きですか」
「ミサトさんの誕生日なんだから、ミサトさんが最初に選んでね」
 ホームズが言うと、嬉しそうに品定めをしている。
「私、やっぱりイチゴのショートケーキがいいな」
 美里は満面の笑みを浮かべ、ショートケーキを選んだ。

 有田は「やっぱり」と思った。他にも美味しそうなムース系やチョコレート系など、どんな好みにも対応できるように、いろんな種類を買ってきていた。それでも美里は一番スタンダードなイチゴのショートケーキを選ぶだろうと予想していた。
「ホームズさんはどれにしますか? 次は絶対ホームズさんが選んでくださいね。このガトーショコラも美味しそうですよ」
 マスターや有田のことはそっちのけで楽しんでいる美里を見て、ふたりは目を細くするだけだった。
「じゃあ、私はこのフルーツタルトをいただくわ……。未明君ごちそうになるわね」
 ホームズが美里の推薦したガトーショコラをなぜ選ばなかったのか、有田は少し気になった。しかし、好物だからといってガトーショコラを選ぶわけにもいかなくなったので、チーズケーキを選んだ。
 ケーキはいらないと言うマスターにも、無理やりにショコラムースを選ばせた美里は、
「残りは後で私が全部いただきます」
 と、嬉しそうに厨房に持っていった。

「せっかく来たから、たまごサンドを食べて帰るわ。今日はハーフでお願いします」
 ホームズは、いつものようにたまごサンドとコーヒーを注文した。
 ベイカー街の食事メニューは他にもマスターこだわりの美味しいものがたくさんあるのに、ホームズは決まってたまごサンドを食べる。
 有田もたまごサンドを食べたことがあるし、たっぷりのゆで卵を粗く潰した中にスクランブルエッグを混ぜているから、ふんわりと柔らかな食感になっていて、パンのミミから溢れそうなくらいにたっぷりのたまごがとても美味しいのは知っている。
 ミミを切り落としていない豪快なサンドイッチだが、ミミまで柔らかく食べられるパンを使っているのもいい。それでも、マスター特製のドライカレーやナポリタンスパゲティなど、他とはひと味違うオリジナルメニューも取り揃えているのに……と、有田はいつも思っていた。

「なあホームズ。ここのメニューで、たまごサンド以外って食べたことある?」
 有田がずっと疑問に思っていたことをズバリ聞いてみた。
「あるわよ。ドライカレーやナポリタンが美味しいのは知っているけど少し辛いのよ」
 確かに、ここのナポリタンには最初から少しタバスコが加えられていてピリ辛なので、辛いものが大好きな有田としてはお気に入りのメニューだ。
 有田は心の中で拳を握った。そういえば、ホームズと酒を飲む際にもキムチやチョリソーなど辛いつまみを食べているのを見たことがない。コーヒーに砂糖を入れるのも、ガトーショコラを選ばなかったのも、苦いのがダメなのだと確信した。

『やっぱり、ホームズの味覚はお子様舌なんだ』

 今度飲みに行ったら、あえて辛いものを食べさせてみようかと、軽い意地悪を思いついた有田がニヤニヤしながら、
「事件が解決したらビールでも飲みに行こうじゃないか」
 我ながら、刑事らしくないぎこちない誘い方だった。
「そうね、是非もう一度『鳥やす』に行きたいわ。今度はバラやつくねも食べてみましょうね。楽しみだわ」
 ホームズは何も知らずに嬉しそうだが、有田はどうやったら鳥やすのチョリソーを食べさせることができるか考えていた。

      (続く)

ちょっと息継ぎにミリちゃんの誕生日を挟みました……
なワケないか^^;

こんなにいっぱい伏線ばらまいて回収できんのかね。。。(自爆)

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