謀略の狭間に恋の花咲くこともある #10

(第五話)『卒業』後編



 地域の草刈り作業には秋吉さんや岐部さんも参加していたので、夕方明るいうちから四人で飲み始めた。
「今日こそは岐部さんから歩惟さんへの想いを語ってもらいますよ」
 俺が水を向けると、岐部さんは酔っ払いながらも真面目な顔つきになった。
「ところがな、親父さんに反対されているんだ」
「えっ? 親父さんってパン屋の大将ですか?」
「そうだ。『まだ一人前のパン職人にもなってないのに色恋沙汰は許さん』ってな」
「一人前になる卒業試験があるんじゃなかったですか?」
「そうなんだ。来週の火曜日にあるんだが、条件が厳しくってよ。『これまでに食べたことのないパンを作れ』って言うんだ。もう少し先に延ばしてもらえないか頼んでいるけど頑として受け付けてくれないんだ」
 そりゃ、可愛い一人娘に関係することだから生半可な合格じゃなくて、相当高レベルな要求をつきつけるのだろう。岐部さんは歩惟さんへの想いと卒業試験のことでいつもより早いペースで飲んでいた。
パン屋の朝が早いという岐部さんが日付の変わる前に帰ったところまではなんとか覚えているがそれ以降の記憶がどうも曖昧だ。


「いい加減に起きないか!」
 秋吉さんの声に痛む頭を上げると、いつもの作務衣を着た秋吉さんが呆れたように立っていた。
「おはようございます。秋吉さんは元気いいっすね……」
 隣でまだいびきをかいている結城を揺り起こしながら俺がやっとの思いで声を出す。
「なに言ってんだ。丸一日半も寝ていてまだ寝るのか?」
 秋吉さんの口調は少し怒っているようだ。
「えっ? 一日半?」
 目をこすって壁の日めくりカレンダーを見ると、たしかに八月六日になっている。
「じゃあ昨日は……」
「いくら起こしてもふたりともピクリともしないから一日寝せておいたんだ。慣れない草刈りで体が悲鳴をあげたんだな」
 秋吉さんの口調から怒りは消えていた。
「ほれ、もうじき朝食の準備が整うから、今日は働いてくれよ」
 そう言うと、窓を開けて換気しようとした秋吉さんだったが、次の瞬間動きが止まった。
「どうしたんですか?」
 俺が座ったままたずねると、秋吉さんは無言で左の方向を指さした。
 指さす方を見てみると、四十メートルくらい先にパン屋のテラスが見える。霧が出ていてはっきりとは見えないが、どうやら岐部さんのようだ。朝早くから仕込みをしているのだろう白いコック服を着ているが、ゆっくりと後ずさりしている。
「なんか、ヤバい雰囲気だなあ……」
 そうつぶやいたのは、いつの間にか上半身だけ起こした結城だった。
「岐部さーん。どうかしたんですかー?」
 俺が呼び掛けると、岐部さんがこっちを振りむいたが、顔は恐怖に歪んでいるように見えた。
 と、次の瞬間、建物の陰から黒い人影が飛び出したかと思うと、岐部さんの体に体当たりした。バランスを崩した岐部さんはテラスから転落してしまった。テラスは建物の三階部分とはいえ、山の斜面に建てられているので、下の草地まで十メートル以上ある。霧のせいで落下地点は見えないが、普通なら無事では済まないだろう。黒い人影はこちらを見ることなく姿を消した。
「大変だ。行ってみよう!」
 秋吉さんの声で勢いよく立ち上がろうとして、俺も結城もバランスを崩して倒れ込んだ。

「大丈夫か?」
 秋吉さんに頬を叩かれて気が付くと、目の前に秋吉さんと結城の顔があった。どれくらい気を失っていたのか考えていると、
「今、落ちた岐部が心配だからすぐに行こう!」
 秋吉さんの言葉を聞いて、気を失っていたのは一瞬だったのかと思いなおした。
 結城を見ると、眉間にしわを寄せて考え込んでいるようだった。

 部屋の隣にある非常口を出ると、斜面を滑るようにして降り、岐部さんが落ちたと思われる草地に駆け付けた。

 ――ところが、そこには何もなかった。

 文字どおり何もないのだ。岐部さんの体も血痕もないのは無事だという証なのかもしれないが、この高さから落ちれば必ず地面がへこむはずだがそれさえもない。この辺りは一昨日、俺らが草刈りをした場所なので、ほぼ地面が見えている。積み上げておいた草の山がないのは、俺らが寝ている間に地元の人が処分したのだろう。
 十分くらい三人で捜索していると、頭上から声がした。
「なにしてるんだ?」
 見上げると、パン屋の親父さんと歩惟さんが心配そうに顔を出していた。ここから車で二十分くらいの場所にある自宅から到着したところらしい。
 俺ら三人は、岐部さんの姿を探しながら斜面を登った。
「岐部が〝さっき〟ここから落ちたのが見えたんで探していたんです」
 秋吉さんの声に親父さんが驚いた。
「ここから? ケガはしてないのか?」
「ところが、どこにもいないんですよ」
「いないって、どういうことだ?」
「それが俺らにもさっぱり……」
 それから、親父さんや歩惟さんも一緒に探したが、岐部さんの姿はどこにもなかった。もちろん住み込みの部屋にも工房にもいなかった。
「昨日は夕方まで普通に働いていたのになあ。その前の日の草刈りの疲れも感じさせなかった」
 親父さんがしんみり言うのを聞いて、卒業試験に厳しい条件を出したことを反省しているようにもみえた。
「きっと無事に帰ってくるわよ。私が岐部さんの分まで働くわ」
 歩惟さんの言葉に微かな違和感を覚えたが、これ以上探すところもないし、警察に連絡しようにも転落した形跡がないのでどうしようもなかった。

 それから一週間後に俺と結城が大阪に帰る日まで、岐部さんは姿を現さなかった。それにも増して不思議だったのは、パン屋の親父さん以外の誰もが岐部さんの話題をしなくなったことだ。結城も……。


 帰りは、由布岳サービスエリアまで歩惟さんが送ってくれた。偶然にも亀井さんが大阪までトラックを走らせるという情報を聞き待ち合わせたのだ。
 歩惟さんとも亀井さんとも岐部さんの話題にならなかった。ただ……、
「岐部さんが帰ってきたら連絡してください」
 と、結城が歩惟さんにお願いしていた。
 俺がいくら結城に説明を求めても「心配ない」と言われるだけだった。


 それから二週間後、俺のところへ岐部さんから電話があった。
「本当にご心配かけて申し訳ないです。秋吉社長や歩惟に聞いたところでは、結城さんは事情に感づいてるようだから、有田さんに連絡しろと言われました」
 岐部さんが説明してくれたところによると、パン職人としての卒業試験に使うブルーベリーで、フェスティバルという品種が欲しくて卒業試験を三週間強制的に延ばしたということだ。なんでも完熟した実の甘さが最高品種なのだが、収穫時期が遅く八月中旬以降にならないと入手できなかったらしい。
もちろん、秋吉さんも歩惟さんもグルで、テラスで体当たりしたのが歩惟さんだったらしい。それを見届けさせる役割が秋吉さんだったというわけだ。
 それでも、岐部さんの姿が消えたことへの疑問が残っていたが、結城はとっくに気づいていた。
「俺たちが酔いつぶれて寝ていたのは、ほんの数時間だったのさ。たぶん変な薬を混ぜられていて〝足にくる〟酒を飲まされたんだろう。俺たちを起こして岐部さんの転落を見せたあとにすぐに立ち上がればまた昏倒するくらいタチの悪いやつだったんだろう。それからたぶん薬で丸々一日眠らされたあと再び起こされたんだ。岐部さんは草の山に飛び降りればケガもしないし、その日一日は仕事もして、あ、その間に草の山は片付けているがな」
 結城は見てきたように解説してくれたが知ってたら教えてくれよ。
「未明が血相を変えて岐部さんを探していたから、パン屋の親父さんも信じたんじゃないか。それに、岐部さんの転落を見たときと秋吉さんに頬を叩かれて起こされた日が違うってくらい自分の体内時計でわかるだろ」
「でもカレンダーだって一日半寝ていたようになっていたし……」
「日めくりくらいどうにでもできるやないか」

 後日談として聞いたところによると、岐部さんは無事に歩惟さんと結婚して東京でパン屋を営んでいるらしい。


 こんな不思議な卒業旅行を経験できたのも、結城のおかげだと感謝している。


      (第六話に続く)


思い出話はこれにて終わりで、次からは現代に戻ります。


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