甘いタリウムは必然の香(1)

 序章 ホームズとの出会い

  1.運命の桜並木


 形式どおりに進行した退屈な入学式が終わり、大きく伸びをした有田は、人の流れに身を委ねて講堂の正面玄関から外に出た。

「わしの予想じゃぁ、未明の記録が四年更新されるんは間違いないのぉ」
 中学からの悪友は、上京する有田に向かってこんな悪態をついていた。

 有田としても、自信を持って否定できないのが辛いところだが、地元に残らざるを得ない悪友の嫉妬だと思うことにした。奴を見返すためには、なんとしても『彼女いない歴十八年』の自己記録更新に終止符を打たねばならない。

 充実した大学生活を送ることが本来の目標であるのはもちろんだが、
「それを実現するにゃぁ、彼女を作るんが一番じゃ」
 と、悪友はのたまっていた。
 自称『彼女いない歴十二年』を主張する男の助言をアテにできるはずもないが、高校時代は硬派で通した有田には、これまでの生活パターンを一新したいという気持ちが誰よりも強く、瀬戸内海に面した故郷から遠く離れた東京の大学を選んだ。

 講堂から一歩出ると、暖かさを帯びた風が頬をなでる。満開の時期を少し過ぎた桜の木々は、春風が通り抜けるだけで白い花びらを解き放っていた。
 キャンパスの中央通りは、桜吹雪の優雅さをかき消すような活気と喧騒に包まれていた。
 どこか眩しげに、まだビジター気分でいる多くの新入生に向けて、サークル勧誘の声を張りあげる先輩たち。さまざまに工夫されたキャッチフレーズを聞きながら、面白そうな……というより、刺激的な出会いがありそうなサークルがないかと流れ歩いているときだった。

 突然、金縛りにあったように、有田はその場に立ちすくんだ。

 視界全体に霞がかかり、中心部だけピントが合ったポートレートを見ているのではないかと錯覚するほど、数メートル先の人波を颯爽と歩くひとりの女子学生に目を奪われた。
 派手な衣装や化粧が目を引いたわけではない。どちらかといえば地味な服装の彼女は、目的地へ向かうという決意のオーラを全身から放出していた。小柄なのに、周囲からくっきりと浮かび上がっていたのだ。

 勘の鋭さが自慢の有田は、「これだ!」と閃いた。
 正直言って第一印象は、「彼女にしたい」という恋愛対象ではなかった。恋愛経験のない有田だからこその『理想の女性像』があり、彼女のそれはほぼ対極に位置しているといってもよかった。
 それでも、充実した大学生活を送るために必要な存在だというインスピレーションが、有田の脳に飛び込んできたのだ。そのまま彼女の後を追うように『心理学研究会』というサークルの入会名簿に有田未明(ありた みめい)と記入していた。

 特に目立つ存在とは思えなかった彼女だが、サークルの新入生挨拶をきっかけに、一躍有名人となった。
 結城巣逗(ゆうき すず)というかわいらしい名前でありながら、『巣』の部分だけ英語の『ホーム』に変換して、
「ホームズと呼んでください」と自己紹介したのだ。
 子どもの頃からのホームズフリークで、将来の夢も名探偵になることだと目を輝かせて自己紹介した。その場にいた全員が一様に退いてしまったが、その後のホームズらしい行動と共に、自然と皆が「ホームズ」と呼ぶようになっていった。

 並外れた観察力や抜群の記憶力はもちろんのこと、最もホームズらしい行動といえば、毒物の研究を趣味にしていることだった。本家本元のシャーロック・ホームズは、コカイン溶液を自分で注射し、脳を刺激していたとの逸話をもっているが、結城ホームズも同じような言動で周りを驚かせていた。

 入学から二週間ほど経ったよく晴れた日のこと……。
 学食でランチを食べ終えた有田がキャンパスを散策していると、花壇脇のベンチにホームズが横たわっているのを見つけた。昼寝でもしているのかと思って近づくと、眉間に皺を寄せて真っ青な顔をしている。
 それまで、あいさつを交わすことはあっても、話しかける機会を見つけられないでいた有田は、思いきって声をかけた。
「大丈夫? 顔色が悪いよ」
 ホームズは薄目を開けると、無理やり口角を上げるように微笑んだ。
「私は大丈夫…………。有田君はそこの土を食べちゃだめよ」
 蚊の泣くような声で言いながら、ベンチ脇の花壇を指さして、すぐにまた目を閉じた。

 何が大丈夫で、何を忠告してくれているのか、有田にはまったく理解できなかったが、名前を覚えてくれていた感激を喜んでいる場合ではなく、〝今が緊急事態だ〟ということは理解できた。
 迷うことなくホームズを抱え上げると、五分後には医務室に到着していた。

 翌日には元気になったホームズから聞いた話では、花壇の土を味見していたら、かなり強力な殺虫剤が含まれていたようで、舌に乗せただけで気分が悪くなったとのことだ。なんでも、土を食べるのはクセになっているらしい。常識的には考えられないことだが、有田にとっては、ラッキーな事件となった。
「私を抱えて走っているとき、全然揺れなかったわ。すごい腕力ね」
 ホームズの独特な感性には戸惑うばかりだが、この一件をきっかけにふたりの関係は急接近した。有田を「未明君」と名前で呼ぶようになったホームズから、正義感と体力を頼りにされるようになったのだ。
 有田も、ホームズのことを知れば知るほど興味をかき立てられたし、充実した大学生活を送れていることはもちろん、ホームズに魅了されていくのを感じていた。

 ホームズは、好奇心旺盛というレベルをはるかに突き抜けて謎めいた話が大好きで、事件と聞けば痴話喧嘩だろうが猫の行方不明だろうが、すべてに首を突っ込みたがる。しかも、どんなジャンルに関しても知識が豊富で、道端に生えている雑草の名前や特徴はもちろん、味や調理方法にまで詳しかった。有田から見ると『ただの雑草』が、食べられるようになるだけでなく、薬草になったり、毒になったりもするのである。
 噂によると、シアン化カリウム……一般的には青酸カリと呼ばれる化合物なども、味見しているらしかった。有田はその現場を見たことはないが、問いただしても本人はさほど大したことではないと認識しているようで、惚けられるだけだった。
 雑学だけでなく全教科を通して成績も優秀らしく、法学部の首席合格だとの噂は真実なのだろうと有田は思っていた。
 女子大生といえば華やかなイメージを思い浮かべていた有田だったが、ホームズの外見は極めて控えめだった。短めの髪の手入れもあまりしているようには見えず、少し太めの眉で化粧っ気もない。毎日決まって白いブラウスをジーンズにシャツインしていて、派手な色合いの服装を見たことがない。
 普段はすまし顔なのだが、とき折見せる笑顔が魅力的なので、いつも行動を共にしている有田が傍にいなければ、言い寄る男子学生も少なくないはずだ。

 あるとき、ホームズに言われたことがある。
「未明君って、私のボディガードみたいよね」
 小学生の頃から剣道を習い、柔道や合気道の有段者である有田としても、か弱いホームズを守っているナイトの響きがあり悪い気はしなかった。それでも、いつの日か「彼氏」と呼ばれる日も来るのではないかとの期待がないともいえなかった。有田はその気持ちを出さないようにしているが、鋭い観察力を持つホームズが気づいていないとは考えにくい。

 か弱いといっても、ホームズの飲酒量は、見た目からは想像できないものだった。有田は体格的にも酒に強い方だと思っていたが、ホームズはそれを遙かに上回っていた。小柄で色白なホームズの頬がほんのり桜色になるところまでは色気があってかわいらしい。しかし、そこからがいわゆる『ザル』なのだ。ホームズを落とそうとした男子学生がいくら酒を飲ませても、大抵が先に潰れてしまう。有田も秘かに飲み比べを挑んでみたことはあるが、意識を失うのはいつも有田の方だった。
「お酒も毒と同じで、飲み方次第では薬になるのよ」
 すまし顔でさらりと言うホームズにとってみれば、毒物の味見も酒も同じ経験値になっているようだった。

 初めて見たときに感じた通り、ホームズは目的を持って『心理学研究会』に入会したようで、しょっちゅう部長と論争をしていた。
「これだけ熱心に心理学を研究しているんだから、本人ですら気づいていない必然性を導き出してあげられるよう、心理操作についても追究したいんです」
 ホームズの主張に対して、部長は真面目な学者肌の先輩で、フロイトやマズローなど先人たちの心理学を読み解き、皆で議論することに主眼を置いていた。ホームズの考えは一歩間違うと危険な思想に繋がりかねないとして却下されていた。

 結局、研究するだけでは物足りなくなったホームズは、一年半在席した『心理学研究会』を飛び出し、『心理操作実践サークル』と名付けた新しいサークルを立ち上げた。このとき、有田がいつの間にか設立メンバーになっていて、しかも初代部長を務めることになった裏には、ホームズによる心理操作の威力が発揮されたのではないかと思われる。

 新サークルの発足を前に、有田がホームズとディスカッションしたときのことだ。

「自分はともかくとして、他人の行動を理解したり制御したりすることはできないと、ホームズがリスペクトしているアドラーも言ってるじゃないか」

「でも、世の中には自分の行動すら理解してない人が多いのよ。他人のほうが冷静に理解できると思うの」

「他人の行動を理解してどうするんだい」

「その行動の本質がわかれば、上手く誘導することで行動そのものを制御することができるじゃない」

「行動を制御するって、催眠術みたいで危険じゃないのか」

「間違った方向に誘導すれば危ないけど、すべての人が幸せになれる方向に心理操作できたら素敵なことよね」

「『すべての人が幸せに』とは大袈裟だな」

「誰も罪を犯したくて犯罪に手を染める人は居ないと思うの。何かのきっかけで人生の歯車が狂ったときにどんどん悪い方へ流された結果、最後には罪を犯さなくてはどうしようもなくなるんじゃないかしら。そんな不幸の悪循環で罪を犯した人に、二度と同じ過ちを繰り返してほしくないの」

「犯罪者も幸せにするってことなのか」

「だって……犯罪はもちろん悪いことだけど、犯罪者がみんな悪人だとは限らないでしょ? 善人なのに必然的な理由で人を殺すことだってあるわ」

 ホームズの言っていることは、突飛な発想ではあったが正論だったし、

「絶対に実現するんだ」という決意が真剣なまなざしから見てとれた。

 そして、あの事件が起きた。

 心理操作の研究を始めたばかりのホームズが、研究成果を実践するのにうってつけな事件が……。

      (続く)


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