甘いタリウムは必然の香(30)

 第七章 十六年前の真相 

  2.時効


 ――十六年前、警視庁から警察庁に出向していた剣崎は、特捜との共同捜査で国会議員の収賄疑惑を内偵していた。
 対象者は広範囲に渡ったが、中でも大物の倉見雄一郎は将来の総理大臣とも目されていた与党の重鎮だった。下っ端の議員をいくら逮捕しても『トカゲのしっぽ切り』となって、悪の中枢には辿りつけないことがわかっているため、最終ターゲットを倉見ひとりに絞って捜査していた。

 二年以上の内偵の末、ようやく証拠に結びつきそうな書類の存在がわかり、半年かかってその書類を持っている秘書を口説き落とした。
 その秘書は「日本の将来のためにも許しておいてはいけない」との説得に応じて、証拠書類の提出と裁判のときには証言台に立つことを約束した。
 ところが、証拠書類を届けると約束した前夜に交通事故でその秘書は死んでしまい、証拠の品も入手できず、証言台に立つ者もいなくなった。
 特捜のメンツにかけて交通事故の原因を捜査したが、山道を運転中のハンドル操作ミスであると結論づけられ、一緒に亡くなった奥さんとともに今も剣崎の十字架として重くのしかかっている――


「その秘書の名前が、烏丸幸次さんだ。山科さんは覚えてないようだが、当時わたしは、あなたにもお話をうかがいに行きましたよ。時期が時期だっただけに、事故が仕組まれたものじゃないかと懸命の捜査をしましたが、結局証拠が見つからないまま交通事故として処理されてしまった……」
 剣崎は鋭い視線で山科を見据えながら無念そうに話し終えたが、山科は無言のまま流れる汗を拭っていた。

 それまで堪えていたかのように美里が声を上げて泣き崩れた。――と同時に麻紀も貰い泣きしていた。
 マスターがふたりを心配そうに見つめているが、かける言葉を見つけられないでいるようだ。
「当時の警察が交通事故だと判断したのも無理はないと思いますよ。犯人たちは周到に準備して、夫々の役割をこなした後はお互いの関係性を徹底的に断ってしまうくらい悪がしこい連中だったようです」
「『犯人たち』ということは、やはり事故ではなかったんだな」
 眼鏡の奥で剣崎の目が光った。
「そうですね。キーワードを順番に整理してみましょう」
 マスターが、カップにキノコスープを取り分けて持ってきた。

「まず烏丸さんご夫妻は、このキノコスープが大好きだったという事実。これは香織さんのご両親……つまりミサトさんのおばあちゃんから聞きました。幸次さんの行きつけの小料理屋さんで提供されていたレシピを習って香織さんに作ってもらい、おふたりとも大好きになったそうです。その作り方をおばあちゃんにも教えたことで、ミサトさんも大好きになったのよね」
 美里が涙目で頷いた。
「次にさなえからキノコスープのメニューが消えたこと。古い常連さんの話では、十六年前に突然キノコスープが提供されなくなったのです。これは未明君と静岡まで行って確認しました」
「静岡在住の古谷源太さんの証言で、調書も作ってあります」
 有田が頷きながら補足した。
「また、早苗さんのご主人がパチンコ屋通いを始めて金使いが荒くなったことは、早苗さんの娘さんである琴乃さんが十六年前だったと覚えていました」
 ホームズがさなえでしつこく尋ねていたことを思い出した。

「真鍋さんが倉見代議士の運転手を辞めて会社を興したのも十六年前です。真鍋さんは運転手の仕事を八年続けていたそうですが、いくら節約生活をしていたとしても品川埠頭に会社を持てるほどの蓄えがあったとは不思議なことですよね。さらに真鍋さんがさなえに行かなくなったことや、真鍋さんがキノコを嫌いなったこと……。これらがすべて十六年前の出来事なのです」

 有田も知っている事実ではあるが、改めて手帳に並べて書き込んでみた。
「そして、烏丸さんは夜の山道でハンドル操作を誤り、谷底へ転落して亡くなったのですが、薬物反応もなく胃の中からも怪しい物が検出されなかったために『交通事故死』として処理されたんですよね……。しかし、幸次さんは毎月香織さんの実家まで運転していて、谷底へ転落するほどの運転ミスを起こすとは考えられません。何らかの毒を盛られてハンドル操作が正常にできなくなったと考えるのが必然的です」
 ホームズは少し間を置いて、皆を見回した。

「これらを考え合わせれば、黒幕ともいえる人物が、幸次さんの裏切り……」
 ここで、ホームズは美里の方に優しい眼差しを向けた。
「本当は裏切りなんかじゃなくて正義の行動なんですけどね。幸次さんが倉見代議士の逮捕につながる決意をしたことを知り、黒幕が殺害計画を立てたのです」
 美里が息を飲んで、食い入るように聞いている。
「幸次さんが持っている収賄事件の決定的な証拠は、香織さんの実家に置いてあり、警察に提出するためには車で取りに行かなければならないことを探り出したのでしょう。犯人たちは何らかの理由をつけて出発が夜になるように仕向け、さらにさなえに立ち寄って食事をする段取りをつけました。幸次さんはさなえに通っていたこともあり、早苗さんを信頼していましたので、香織さんを連れていくことにも抵抗はなかったと思います。そして、そこで『毒入りキノコスープ』を飲ませたのです」
 そこまで言うと、ホームズがひと息つくようにコーヒーをひと口飲んだ。

「あっ……」
 声を出したのは、ホームズの顔を見ながら真剣な顔で聞き入っていた美里だった。
「ホームズさん、大丈夫?」
「ん? 大丈夫よミサトさん。まだ冷めていないし、マスターのコーヒーは冷めても美味しいのよ」
 ホームズが平然とした顔で答える。
「いえそうじゃなくって、まだ四日前のことがあるし……」
 美里でなくても皆が心配していることだった。
「それも大丈夫よ。この美味しいコーヒーに変な物が入っていたらすぐにわかるもの」
 ホームズは、美里に向かってウインクすると、またひと口美味しそうにコーヒーを飲んだ。

 それを聞いたマスターが、両肩を上げてお手上げ気味に言った。
「そうなんだよ。ホームズさんはブレンドの配合が少しでも違うとすぐに気づくから、焙煎の具合で配合にもすごく気を使わないといけないんだ」

「四日前の話も後でするつもりだけど、今は十六年前の真相の続きを話すわ。『毒入りキノコスープ』といっても、本当の毒物を使用したら薬物反応が出るので、一般に言う『毒キノコ』ね。毒キノコの中には数十分から数時間後に神経系を麻痺させるものがたくさんあるから、おそらくそういったキノコを使ったのでしょう」
 そこまで話したとき、
「だが、毒キノコらしいものは検出されなかったぞ。胃の中には野菜炒めと白米が残っていたが、どこで食べたものかは結局わからずじまいだった」
 剣崎が口を挟んだ。
「そこが犯人たちの狙いだったのです。さなえのキノコスープは、キクラゲの戻し汁を使っているけど、皆さんの前にもあるように具にはキノコを使っていないんです」
 有田が目の前にあるカップを手に取ってみると、強烈なキノコの香りはするが、細切りの玉ねぎが少量浮いているだけだった。

「シャグマアミガサタケなどは、煮出した汁はもちろん、茹でるときの湯気だけでも危険なものがあります。今となっては特定できませんけど、これらの汁をいつものキノコスープに少し加えるだけで簡単に『毒キノコスープ』が出来るんですよ」
 山科の顔をうかがうと、目の前のスープを凝視したままだ。

「キノコの毒素は自然のものだから、キノコのカケラが見つからない限り、当時の鑑定技術では毒キノコの影響であるかがわからなかったのです。もちろん、キノコスープを飲んだとわかればそれなりに検査するのでしょうけど、十六年前は関係者全員が口を噤んでしまったので、烏丸さん夫妻がさなえに寄ったことも、キノコスープを飲んだという事実にも辿りつけなかったのです」
 ホームズが丁寧に説明した。

「どうやって毒キノコスープを飲ませたと?」
 剣崎が先を促すように聞いた。
「そこからは、先ほどのキーワードを繋ぎ合わせれば必然的にわかります」
 ホームズは右手を出して人差し指を立て、
「まず、さなえの常連だった真鍋さんが毒キノコの粉末などを早苗さんに渡した。早苗さんは渋々でしょうけど報酬に目がくらみ、いつものキノコスープに混入して烏丸さんに飲ませたのです。これは、早苗さんのご主人の金使いが荒くなったことや、お店でキノコスープの提供をやめたことなどを考えれば、必然的にわかることです」

 ホームズは中指も立てて、
「さらに、真鍋さんが倉見代議士の運転手を辞めてすぐに会社を興している点を考えれば、実行犯としての報酬だけでなく、口止め料見合いとして多額の報酬を受け取ったのだろうと推測できます」
 ホームズが二本の指を立てた右手を突き出した。

「烏丸さんご夫妻に毒キノコスープを飲ませた実行犯は、早苗さんと真鍋さんのふたりであることに間違いないでしょう。ただし本気で殺害する意思があったかどうかはわかりません。神経が麻痺しても事故を起こすとは限りませんし、ましてや谷底に落ちることまで計算できなかったと思います。おそらく『変な気を起こすな』という脅しだったのではないでしょうか」
 剣崎が拳を握りしめて悔しがっているのを見たホームズが、庇うように話を続けた。
「でもこれらは、今回の事件を調べていてわかったことであって、当時の倉見代議士の周辺をいくら調べても出てこないでしょう。剣崎警視が責任に感じることはないと思いますよ。ただ……香織さんのご両親の心情をもう少し解きほぐしていれば、キノコスープのことくらいは聞けたでしょうし、タイミングが良ければ収賄疑惑を証明する書類が見つかったかもしれないですね」
「そうだな。今更悔やんでももう遅いし仕方ないが……やはり証拠隠滅を図って交通事故に見せかけた事件だったんだな」
 剣崎が苦々しげに言ったとき、彩花が困惑の表情で身を縮めた。

 そんな彩花を庇うように山科が口を開いた。
「倉見先生の名誉のためにも言っておきますが、それらはすべてホームズさんの想像ですよね。僕にはまるで証拠がないように思えますよ」
 毅然とした態度で抗議の姿勢だった。
「そうですね。私の推理は状況証拠を組み立てただけのものですが、ほぼ事実に間違いないと思いますよ。ただし今更立証することは難しいでしょう。烏丸さんはとっくに荼毘に付されていますし、実行犯であると思われる早苗さんと真鍋さんも亡くなってしまいましたから。それに、たとえ立証されたとしても時効が成立しているので、よほどの確証がない限り殺人事件として起訴することは難しいでしょう」
 ホームズの淡々とした言い方に、無念の感情が滲み出ていた。

「殺人事件に時効はないのでしょう?」
 美里が期待を込めた口調で質問した。さすがにホームズと同じ大学を目ざしているだけあって、法律の勉強もしているようだ。
「ミサトさん、良く知っているわね。今の刑事訴訟法では、死刑に相当する罪に対しての公訴時効が撤廃されているけど、それは二〇一〇年に改正されたものなの。それまでは、殺人罪でも十五年という時効があったのよ……。二〇一〇年以前の犯罪でも、それが『殺人事件であると明確な事件』なら、公訴時効撤廃の適用を受ける可能性もあるけど、十六年前のことは既に交通事故として確定しているから、今更殺人事件としての再捜査も起訴も絶望的ね」

      (続く)

長セリフだらけ……^^;

気に入っていただけたらサポートをよろしくお願いします。創作活動の励みになりますし、誰かの素敵な記事にサポートするなど循環させたいと思います。