甘いタリウムは必然の香(16)

 第三章 奇妙な依頼

  4.キノコスープの謎と尾行失敗


 翌、日曜日は爽やかに晴れた秋空で、暑くもなく寒くもなく絶好の『尾行日和』になりそうだった。

 美里を倉見邸の前まで送った後、有田とホームズは新幹線で静岡へ向かった。

「今から会いに行くのは、どんな人なの?」
「さなえがオープンした頃からの常連で、週に三日は通っていたらしいんだ。名前は古谷源太(ふるや げんた)さんといって七十歳。十年前に定年と同時に静岡に引っ越してから、ほとんど東京には来てないらしい。昨日、聞き込みをした別の常連からの情報で、十数年前を知っているとしたら古谷さんしかいないだろうとのことだ。ところが古谷さんは今、シンガポールに生活拠点があって、明日行ったら半年は帰ってこないんだ」

 静岡駅に着くと、有田が携帯電話で連絡を取った。
「古谷さんは駅前の喫茶店に来ているそうだ」
 指定された喫茶店に入ると、ベイカー街の三倍以上の広さがあり、洋風の装いで落ち着ける喫茶店だった。ほぼ満席に近い客がそれぞれに会話をしているが、全体的なBGMのようにお互いの会話が邪魔になっていない。

「警視庁の有田さんかね?」
 有田が探していると、古谷の方から声をかけてきた。七十歳の割には精悍な雰囲気を持っていて、海外生活などを経験しているからだと思える余裕すら感じた。
「さなえの女将が殺されたらしいね」
 テーブルにつくと早速、古谷が口を開いた。
「そうなんです。もう三週間前になります。その後、関係者と思われていた真鍋という男も死んだのですが、古谷さんはご存じないですかね」
 有田が真鍋の写真を古谷に見せた。
「この男なら随分前にさなえでよく一緒になっていたよ。名前は知らなかったけどな」
 写真を見るなり、古谷は答えた。
「本当ですか。何年くらい前ですか」
「そうだなあ、ワシがこっちに引っ越す何年か前だったと思うが……」
 古谷が記憶を呼び起こすように考え込んだ。
「真鍋さんも、さなえがオープンした頃からお店に来ていたんでしょうか」
 有田が質問の方向を変えた。
「いや……オープンしたての頃は来ていなかったんじゃないかな……。女将が美人で有名な店だったけど、常連はワシくらいの年代が多かったからな」
 懐かしむように古谷が答えた。
 それまで黙って聞いていたホームズが口を開いた。
「さなえのキノコスープを古谷さんはいただいたことがありますよね」
 ホームズが自信たっぷりに断定的な聞き方をした。
「おお、せやった。ワシもその男も、さなえのキノコスープが大好物でな。夏でも最後にはキノコスープを飲まんと帰れないほどじゃった。あれは確か十六年前の今頃だったかの、女将が突然キノコスープをやめてしまって、残念で仕方なかったのを覚えているよ。そうそう、その男にもそれ以来会うことがなくなったから、キノコスープが飲めんなったけん、来んようになったんじゃないかと他の常連たちと話したことがあったわい」
「それじゃ真鍋さんとさなえで会っていたのも、キノコスープがメニューにあったのも十六年前までなんですね」
 知りたかった証言が取れてホームズの顔が明るい。
「なぜキノコスープがメニューから消えたかご存知ですか」
「なんでも女将の話では、いちばん肝心の国産干しキクラゲを仕入れることができなくなったと言っていたな。ま、しょんないことやけどな」
 残念そうに古谷が答えた。
「さなえの入口付近にある焼き鳥屋さんの『鳥やす』は、昔からあったのでしょうか」
「いや、あの路地に焼き鳥屋はなかったよ。入口の所には『チエちゃん』というホルモン焼き屋があって、そこにも時々寄っていたな」
 古谷は、遠くを見るように目を細めた。
 真鍋が昔からの常連だったことと、さなえがキノコスープを中断していた期間もわかったので、ふたりは古谷に礼を言って静岡を後にした。

「真鍋さんはキノコスープが大好物だったのね。あの夜、真鍋さんは『キノコが嫌い』って言っていたわよね……」
 帰りの新幹線の中でホームズが呟いた。
「そう。それに真鍋は、ずっと前からさなえに通っていたことをなぜ隠さなければならなかったんだろうな」
「この半年間通っても、昔の常連さんと顔を合せなかったから、誰も知らないと思ったんじゃない? まさか自分が死ぬことになって、ここまで遡って追及されるとは思ってなかったでしょうからね」
 確かに、有田が執念深く常連を辿ったからこそ、古谷に会うことができたのだ。

 そのとき、ホームズのスマホが震えてトークの着信があることを伝えた。
「あら、ミサトさんからだわ」
 スマホの画面を見た途端、ホームズの顔色が変わった。
 何かを画面に打ち込んでいたが、少ししてスマホの画面を有田に向けた。
「ミサトさんが危ないことに巻き込まれたかも……」
 有田が画面を見ると、『ごめんなさい。失敗』の文字と『ゴメンナサイ』を表すかわいいスタンプがあった。その後にホームズが『どうしたの?』とトークを送っているが、未読のままだ。
 有田とホームズの間でもトークアプリでやり取りをしているが、漏洩防止のため、捜査情報などはSNSやトークに書き込まないルールを徹底している。ホームズをリスペクトしている美里にも同様の心構えがあるようだ。
「この文面のどこが危険なんだい?」
「いくら捜査情報を書き込まないことにしていても、『失敗』だけってことはないわ。何か事情があってこれだけしか書き込む時間が無かったのよ。文字数が少ない分、事の重大さを物語っているようにも見えるわ。トークを送っても既読にならないし、電話にも応答してくれないの……」

 品川からすぐにタクシーを飛ばしてベイカー街へ向かったが、そこにはまだ美里の姿はなかった。
「マスター、ミサトさんから連絡は?」
 ベイカー街に駆け込むなり、ホームズが血相を変えて美里の心配をしたので、マスターもただならぬ事態を感じ取ったようだ。
「何もないけど、まだ午後三時だから依頼の仕事中なのでは……。何かあったんですか」
 マスターは、自分が依頼した仕事なので、少し焦っているようだ。
「ミサトさんから『失敗』っていう連絡があったのが一時間前だったので、もう帰ってきているかと思ったんだけど……心配だわ」
「彩花さんの家に行ってみよう」
 有田が提案した。いくら考えてもどうにもならないときは、行動するに限る。
「そうね。ここにいても心配が募るばかりで何にもできないわ。彩花さんから何か聞けるかもしれないわね」

 倉見邸に着くと、上品な黒いワンピースの上からカーディガンを羽織り、咲き終えた薔薇の花殻を摘み取っている彩花がいた。
「あら、刑事さんと探偵さんでしたわね。どうかなされたのですか」
 ふたりに気づいた彩花が話しかけてきた。
「彩花さんは今日、どちらかに出かけられましたか」
 ホームズが急ぎながらも丁寧に尋ねた。
「今日は三鷹の霊園に行っておりました。それが何か?」
 彩花が怪訝そうに首を傾げた。
「彩花さんおひとりで?」
「え、ええ……」
 歯切れ悪そうに彩花が答える。
「何か変わったことがあったんですか」
「別に……何もありませんでしたわ」
 有田の言い方が刑事特有の質問口調になっていたからだろう、とたんに彩花の口が重くなった。
「何か怖いことがあったみたいですね」
 口をつぐもうとした彩花の表情を読み取ったホームズが、優しく問いかけた。
「実は……そうなの……。お昼くらいから誰かに見張られている気配がしていたのですけど、気のせいでした。でも何だか気味が悪くなったので、知り合いの方に車で送っていただいて先ほど帰りついたばかりですの」
「どうして気のせいだと思われたんですか」
「怖くなったので、知り合いに電話して後ろをつけている人がいないか確かめていただいたのです。そうしたら誰もいなくて……気のせいだったとわかって安心しました」
 彩花は正直に答えているようだ。
 そうすると美里の尾行が失敗したわけではなさそうだが、「失敗」という文字が余計に心配だ。
 そのとき、ホームズのスマホに着信があった。
「……わかりました。すぐに帰ります」
 ホームズに安堵の表情が浮かんだのを見て、美里が無事に帰ったのだとわかった。
 ふたりは彩花に挨拶をしてベイカー街へと急いだ。


 ベイカー街に到着したとき、美里は厨房奥の椅子で眠っていたが、気配を察してすぐに目を覚ました。
「ホームズさん、ごめんなさい。尾行のお仕事が途中で失敗に終わってしまいました」
 美里は目に涙を浮かべて謝った。
「いいのよ。危険を感じたらすぐに中止してもいいって約束だから」
 ホームズが慰めると、マスターが深く頷いた。
「で、何があったの?」
「今日の彩花さんは、午前十時に家を出て下北沢まで行き、井の頭線で吉祥寺のお花屋さんに行ったんです。吉祥寺のカフェでお昼を食べていたので、私も持参していたバランス栄養食品を食べながら待っていました」
 落ち着きを取り戻した美里が、気丈にも報告を始めた。
「お昼の後、先ほどのお花屋さんに注文していたと思われる花を受け取りに行って、また電車に乗ったんです。今度は中央線に乗って三鷹に向かったんですが、お昼を食べた後くらいから、彩花さんがチラチラと後ろを振り向くので、尾行がバレたのかと思いました」
 先ほどの彩花の話と辻褄が合う。
「彩花さんは誰かに電話をしていたんじゃない?」
「そうなんです。ときどき後ろを気にするようになって電話していたんですけど……、どうして知っているんですか」
 美里は目を丸くして驚いている。
「ミサトさんの帰りが遅いから心配になって、さっき彩花さんに話を聞いてきたの。途中で誰かにつけられている気がして知り合いを呼んだんですって」
 ホームズが美里を労わるように髪を撫でながら言った。
「そうなんですか……やっぱり彩花さんには尾行がバレていたんですね。こんなんじゃ探偵失格ですね」
 ペロッと舌を出して茶目っ気たっぷりなところは美里らしいが、屈託のない笑顔にほだされてかホームズも表情を和らげた。

「それで、どうして尾行が失敗になったの?」
「彩花さんが三鷹霊園に入っていったので、散歩のふりをして三十メートルくらい後ろを歩いていたら、急に知らない女の人が近寄ってきて私の腕を取って歩き出したんです。ビックリしていたら『声を出さないで!』って言うから、そのまま一緒に歩いていたんですけど、彩花さんとは違う方向に連れて行かれてしまって……」
「その女性は本当に見たことない人だったの?」
「はい。初めて見る人でした。背はホームズさんより少し高いくらいですが、長い髪を後ろで束ねていて、とても綺麗な女性でしたよ。名前は『みくりや まき』さんと言ってました」
「自分から名乗ったの?」
 ホームズが驚いたとき、カウンターの中でマスターの顔色が変わったのを、有田は見逃さなかった。
「はい。珍しい名字だったので、しっかり覚えています」
「たぶん、皇室や神社の領地を表す『御厨』だと思うわ。名家の方かもしれないわね。それで、御厨さんとどこに行ったの?」
「そのまま三鷹の駅前のコーヒーショップに入ったんです」
 美里の説明によると、御厨まきから「あなたの後ろを怪しい雰囲気の男が歩いている」と言われて、「このままふたり連れのふりをして誤魔化しましょう」と、その男の目を逸らしたとのことだ。
「尾行者が尾行されるなんて、全然ダメですね。三鷹駅の改札が見渡せるそのコーヒーショップでホームズさんにトークを送って、まきさんと話をしながら、彩花さんが戻ってくるのを待っていたんです。でも一時間経っても姿を見せないので、霊園まで戻ってみたらもう彩花さんの姿はなかったんです」
 美里はペコリと頭を下げて、報告が終わったことを表現した。

「御厨さんと、どんな話をしたの?」
「主に私の子ども時代や小中学校の頃の話で、今はひとり暮らしをしているなどの話をしたら、まきさんもひとり暮らしなようで話が合ったんです」
 美里の顔にも明るさが戻りつつあった。
「初対面でそこまで話せるってことは、信頼できそうな人だったのね……。ミサトさんがトークや電話の呼び出しに答えてくれないから焦ったわ」
 ホームズもホッとした顔になっていた。
「ごめんなさい。尾行中はドライブモードにしていたから、ホームズさんの着信に気づかなかったんです。さっき、マスターからホームズさんたちが心配してるって聞くまでスマホを確認するのも忘れてました」
 美里はまた身を縮めるようにして謝った。
「何にせよ、ミサトさんが無事で良かったわ。拉致されたり問い詰められたりしていなくて本当に良かった」
「まきさんが言うには、私の後ろを歩いていた人はボディガードみたいな目つきの男で、誰かを捜している感じだったようです。私が狙われていると直感したので助けてくださったらしいです。その男って、彩花さんが呼んだ人なんでしょうね」
「おそらく、そうだと思うわ」

 安堵の表情を浮かべた美里にマスターが話しかけた。
「ミリちゃん、ごめんね。ぼくが変な依頼をしたために危険な目にあわせてしまったね。そんな危険なことになるとは思わなかったから……」
 頭を下げるマスターがすごく汗ばんでいるのを有田は不思議に思った。
 そんなマスターの変化にホームズは気づいてか、
「マスターの依頼を最後までやり遂げられなかったから、今回の報酬は受け取れないですね」
 申し訳なさそうに頭を下げた。
「とんでもない。そういうわけにはいかないよ。今日も三鷹霊園に行ったことがわかったわけだし、それに危険な尾行だと知らずに依頼したとはいえ、ミリちゃんを怖がらせてしまったんだから、お詫びも兼ねて規定料金の二倍を支払いますよ」
 マスターは、受け取りを固辞するホームズを説得して料金を支払っていた。
 その日はベイカー街を早仕舞いして美里を休ませるということで、有田とホームズは事務所に移動した。

      (第四章に続く)

ミリちゃんが無事でなにより……

少しだけサスペンス風な場面も入れてみました^^;

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