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千葉雅也「勉強の哲学」を読んで

「勉強の哲学」を読みました。

 きっかけは、Twitterのとあるツイートです。「勉強をする上での技術について書かれている」という一文に興味を惹かれ、書店に注文して購入しました。

 とても刺激的で、知的好奇心をかき立てられる本でした。

 一般的な自己啓発書と大きく違うところは、「言葉に紐づく”概念”を注意深く定義しながら話を進めてゆく」ことです。

 哲学書を読んだことがほとんどなかったので、次から次へと鮮やかに”概念”が定義されてゆくのに驚きました。一般書では、ここまでたくさんの言葉の”概念”を定義しながら話を進めてゆくのを見たことがなかったのです。

 それは、こんなふうに書かれています。

 
 概念を定義しながら、話を進めていきましょう。まず、「環境」と「他者」から。

 本書では、「環境」という概念を、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」という意味で使うことにします。シンプルには、環境=他者関係です。小さい規模では、「恋愛関係」や「中学時代の仲間内」も、環境として捉えて下さい。大きなものでは、「日本社会の全体」や「インターネットの世界」、「グローバル市場」などもそうです。

他者」とは、「自分自身ではないものすべて」です。普通は「他者」と言うと、他の人間=他人のことですが、それより意味を広げてください。親も恋人も、知らない人も、リンゴやクジラも、高速道路も、シャーロック・ホームズも、神も、すべて「他者」と捉えることにします。こういう「他者」概念は、とくにフランス現代思想において見られる使い方です。

 続いて、目的、環境のコード、ノリという概念についても、上記のように丁寧に定義されてゆきます。

 環境には、「こうするもんだ」がなんとなくあって、それは「目的」を達成するためにあるのだ、と。


 環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。
 
言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。
 これは、強制的な事態なのです。なんとなく、深く考えずに生きている状態では、その強制性を意識できていないかもしれません。あるいは、それに嫌気を感じている場合もあるでしょうが、私たちは、なんとか生き延びるために、周りに合わせて「しまって」いるものです。

※注
原文では、「環境のコードによって目的的に共同化されている」の部分に傍点がふられて強調されています。


 会社なり学校なりのコードに合わせてしまっている。習慣的に、または中毒的に、「こういうもんだ」と、ある特殊なしゃべり方や動きをしてしまう。そういう状態は、ある環境において、いかにもその環境の人らしく「ノっている」ということである。
 環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリ」と表すことにしましょう。
 ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
 流れるように「コード的に行為できる」のが、「ノリがいい」わけです。逆に、コードにそぐわない行為を「やらかして」しまうのは、「ノリが悪い」ということである――ならば、周りから「浮く」ことになります。さらには、異分子として排除されることもありうる……。
 ノリは、残酷なことに、「ノリが悪いと見なされることの排除」と表裏一体です。

 興味をそそる巧みな構成になっているので、この先はどうなっているのだろう、早く知りたい、と夢中になって読みました。

 きちんと定義された”概念”を踏まえ、理解する必要があるので、読み進めるのは意外と大変でした。「わかりやすい」けど、がっつりハードな歯ごたえです。

 この本は、「自分を破壊する勉強」について書かれています。

 なんとなく、勉強をすると「今までの自分で不足しているところへ補充してゆく」ことで良くなってゆくイメージがあったのですが、この本では勉強の持つ違った側面について説明をしています。


 勉強とは、自己破壊である。
 では、何のために勉強をするのか?
 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
 それは、「自由になる」ためです。
 どういう自由か? これまでの「ノリ」から自由になるのです。

 勉強をすることで、いったん自分をばらばらにする。

 隙間なく組み合わされて一応それらしく形作られた「自分」を、レゴブロックのように細かく分解してしまう。

 分解したときには、元通りに組み立てられるのかどうか、不安になってしまいそうです。

 たぶん、「元通り」には戻せない、のかもしれません。

 その代わり、新しいパーツを組み込むことができる。今までとは違った形に組み立て直すことができるかもしれません。

 ただ、前とは違った形になると、「元の居場所」には、うまくはまることができなくなるかもしれない……。今まで仲良くしていた友人からは、「形が違うから、お前は仲間じゃない」と、突き放されてしまうかもしれない……。

 そういったリスクがあるのかもしれない、と、読んでいて感じました。

 でも、変わったあと、新しい友人と知り合ってゆくのかもしれないのです。

 自分をばらばらにしてしまったら、やっぱり痛いのかもしれない。友人とうまくゆかなくなって、とても孤独な時期を過ごさなくてはいけないのかもしれない。

 でも、その時期を経て、感じることができる「自由」がある。

 「あとがき」の一文を、最後に引用します。


 最後に言いたいのは、勉強はいつでも始められるし、いつ中断してもいい、ということ。
 勉強は、変身です。
 だから、変身はいつでも始められる。そして、いつ中断してもいいのです。

 いつ始めても、いつ中断してもいい、と言ってもらえると、すごく気持ちが楽になりました。

 ほんの少し変えるだけで、息をするのが楽になることもあるのではないでしょうか。

 変化するのは、楽になるのは、「罪ではない」と、個人的には思っています。

 今の自分のままで生きているのはなんだか息苦しい、なにかを変えたほうがいいと思うけれど、どんなふうに、なにをしたらよいか、わからない、そんな時に、この本は背中を押してくれる一冊になるかもしれません。



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