暗黙知について
「ほぼ日刊イトイ新聞」で脳科学者の池谷裕二さんと糸井重里さんが対談なさっていて、その中で「暗黙知」について触れている回がとても印象に残りました。
第7回 体は事実を知っている。
http://www.1101.com/ikegaya2010/2010-10-05.html
糸井 今日は、いつでも事実が先にあって、
意識はそれをあとから追いかけてるだけなんだ
っていうことをずっと話してますね。
池谷 そうですね。
意識は、脳や体が感じ取った事実を
解釈してるんだと思うんですよ。
糸井 でも、それがひとり歩きしちゃうと、
意識でぜんぶをわかってるつもりになっちゃう。
池谷 そうなんです。
このあと、目の錯覚を利用した、見た目は長さが違って見える2本の棒の図が提示されます。2本の線を実際に指でつまもうとすると、私たちの指はきちんと同じ長さの分だけ指を広げる、というデータが紹介されます。
私たちの身体は事実を知っている。
無意識も正しい長さを知っている。
けれど、「意識」は、目の錯覚にだまされて、線の長さを間違って知覚してしまうのだそうです。
そのあと糸井さんは、生まれたばかりの赤ちゃんが目をつぶっておっぱいを飲む例を引いて、「暗黙知、いや、身体知っていうのかな。すごいですよね」とおっしゃっています。
この対談を読んでいてふと、「文章を書く」ということは、身体や無意識が知覚している「暗黙知」を利用しているのかもしれない、と思いました。
私の場合は、自分が目を使って「見た」映像的な記憶、身体を使って「感じた」体感的な記憶をたどって、「これを、この映像を伝えたい。この感覚を伝えたい」と思って、書いてゆきます。
身体や無意識を通して得た「記憶」を、「意識」で解釈し直して、言語に変換してゆく、という感じです。
なので、「意識のほうが記憶の解釈を間違えると、ちょっとヘンな文章になる」場合があります。
元気がないときに文章を書くと、なんとなく冴えない文章になったり、逆に、嬉しいことがあってテンションが高いときに書くと、はしゃいだ文章になってしまうのは、「意識」の状態が平静でないので、バランス良く「記憶」を解釈したり、言語に変換できないためなのかもしれません。
せっかく「身体」と「無意識」のほうが「これだよ、これだよ」って、一生懸命に私の「意識」に教えてくれているのに、「意識」のほうがアンバランスだと、「身体」と「無意識」が伝えようとしているものを受け取りそこねてしまう、という感じでしょうか。
「身体」と「無意識」がなにを伝えようとしているのか、注意をして耳を澄ます、ということに気をつけてゆけたらいいな、と思います。
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