深夜のファミレスに幻想を抱いて
深夜ファミレス駄弁り小説が読みたい。または深夜のファミレスで友だちと駄弁りたい。
益体のない、役に立たない、読んだ(話した)端から内容すら忘れてしまうような、そんなくだらない話を永遠としたいし、そんなくだらない話を永遠としている(熱心でもぐうたらしながらでもいい)人たちが描かれているような小説を読みたい。
先日、さのさくらさんの『ただの飯フレです』3巻に深夜ファミレス回があって、それがとても良かったので(こちらはくだらない話というよりは少し踏み込んだ話をしていましたが)、そんな気持ちを自分が持っていたことを再確認した。
なぜ場所は深夜のファミレスが良いのだろう?また、なぜくだらない話、役に立たない話が永遠と続くものを読みたい(話したい)のか。
まず、深夜のファミレス(で朝を迎えること)は、大人になったらできない、ということが挙げられる。正確にはできないことはないけれど、それをすると次の日に支障が出るのは確実で、感傷みたいな気持ちだけではそれをしないくらいに大人になってしまっている。後はなんだろう、坂元裕二作品でファミレスが象徴的に登場するから、とかくだらない話をする空間として向いてそう(ドリンクバーがあったり、ソファー席は長時間座っていても疲れなさそう)とかが挙げられるだろうか。後は日常的な空間が夜中という時間によって非日常的な空間に変わるとかかな?パッと思いつくのはこれくらいだけど、でもなんとなく核心ではない気もする。
次にくだらない話、役に立たない話になぜ惹かれるのか。これはその話を読んだ(聞いた)自分が現実生活で活かす必要が生じないから、がまずあると思う。有益な話、役に立つ話は、読む(聞く)と実生活で活かさないといけないような、急かされるような気持ちになる。そうじゃなくてもっとくだらない、好きな四字熟語は何ですか?とか大人になった今自由研究するならどうする?とか、ドラえもんの道具を1つ貰えるなら何がいい?とか、他にはアサガオの観察日記書いてきたから読んでよ、読みたい!みたいな話をしたい。誰かのアサガオ観察日記、めちゃくちゃ読みたい。
そんなくだらない話をしていると朝を迎える。窓から陽が差してきて、目の前のテーブルが照らされる。水の入ったグラスや立て掛けられたメニュー表から影が伸びているのを見て、そういえばここは現実だったんだなと思い出す。
役に立つ話や有益なものは嫌でも現実と繋がってしまう。非日常に浸かるには、日常とは異なる空間と、くだらない、役に立たない、無益なものが必要なのかもしれない。
だから自分は、深夜のファミレスに幻想を抱いている。
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