日本での待機とタイでの隔離

① タイ⇒日本

タイから日本へ一次帰国した7月末から15日間、羽田空港のホテルで「隔離」生活を送った。
空港での書類提出、問診、PCR検査といったプロセスは考えられたものだと感じた。当時は検疫職員の数が少ないこと、まだ手探り感があるのが気になったけど皆一生懸命取り組まれているなあと思った(今は体制が拡充されているかもしれない)。

ホテルでは、3日に1回部屋替え、施設は部屋以外一切使うことができないという説明を受け、陰性であることを申告する用紙に署名しチェックインが完了した。
滞在中、毎日の外出のルーティーンはこんな感じ。
①ターミナル内で一部営業しているお店に食事を調達しに行く。
②ターミナル内を散歩、展望デッキで飛行機(あまり飛んでいないが)を眺める。
③ベンチに座り読書。


ローソンとセブンの惣菜は相当詳しくなったしお気に入りの商品が見つかった。
京急線やモノレールの駅改札手前まで行き、このまま乗ったとしても誰も帰国者だとわからないだろうなあ、とか思いながら過ごした。


タイは数ヶ月新型コロナウイルスの市中観戦が確認されていない、かたや日本は数が一気に増えていた時だったため、自分の方が絶対感染していないしこの中に感染者がいるのではないかとかどこかで感じてしまっていた。タイを出国する際に、「今日本は危ないでしょ」といった声を聞いていたし、自国は安全で感染者が増えている国はとにかく危険というムードがあったと感じていたけど無意識に流されることの怖さなのかもしれない。

空港には空港職員、警察官といった人達は働いていて、毎日見ていると興味が湧いてきて空港マニアになりそうだった。羽田空港ターミナルにもなんだか愛着が湧いてくる。もはや人でごった返していた空港ターミナルがイメージできない中で、毎日凄まじい数の人が国をまたいで移動していたんだと遠い過去のことのようにも感じた。


1週間が経つ頃からは空港周辺を夜遅くにジョギングするようになった。
羽田エアポートガーデン(存在も知らなかった)が春に開業予定だったが延期になっていたこと、羽田イノベーションシティという施設の存在を知った。そこで半沢直樹のロケが同時期に行われていたことを後から知って、見に行けるわけでもないのにポジティブに悔しい気持ちになったりもした。

自主隔離という言葉を何となく使っていたけど、厚生労働省のHPを見て入国時点で感染が確認されたら病院などに「隔離」され、そうでなければ「待機」だったということに気付いた。自由に出歩けるのが隔離なのかという疑問を持つまでもなかったのだ。要請で罰則はないにしても公共交通機関を2週間使えないというのは理解できる気もしてくる。



② 日本⇒タイ

9月末に再度タイへ入国し、15泊16日の隔離生活が終わった。


これは正真正銘「隔離」だったと感じる。入国のための書類手続きや事前のPCR検査等のプロセスは大丈夫かわからない中では不安もあり大変に感じた。現地空港に着いてからホテル到着まで、書類確認や問診があったが大量の医療用防護服を着た係員(医療関係者か空港職員か見分けがつかない)がいた。到着したら椅子に座らされ、係員がまわってくる。


2時間程度かけて検疫、入国審査、預け荷物引取全て済んだところでペットボトルの水を配っていたのが何気ないことでも気配りができているなあと感じたし、普通にありがたかった。


ホテルは完全にASQ(Altanative State Quarantine) 仕様だ。ASQとして認められたホテルはそれぞれ病院と協力しナースが常駐している。おそらく絨毯だった廊下や部屋には簡易のシートが敷かれている。宿泊者は靴カバーをつけないと部屋の外に出られない等々。


体温チェックは毎日2回、アプリを用いて報告する。忘れたらLINEか部屋の電話で連絡が入る。2回のPCR検査で陰性なら1回目はオレンジ、2回目は緑のリストバンドが渡されて、Lineで陰性であったことが告げられる。
食事はオンラインのメニュー表から選びLineで注文、3食部屋の前の台に置かれる。たくさんメニューがあって飽きることはほとんどなかった。ベジタリアンメニュー、グルテンフリーメニューもあった。
人とアプリで管理がしっかりなされていてとても安定感のある体制だと見える範囲で感じた。日々こういう状況で勤務している人達には感謝しかない。


1年のうち1ヶ月を待機や隔離下で過ごした。進んでこの状況に身を置きたいわけじゃないけど、貴重な時間だったと思う。

また、各国で感染を防ぎたいという共通の目標であっても国の状況や取り得る体制、そういうのをを加味した方針や詳細の取り組み方は全然違うってことは理解しないとなと改めて考える機会になった。

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