恩田陸『蒲公英草紙 常野物語』書評

 明治のような時代を背景に、東北の名家・槙村家にまつわる人々の様相と交流が、少女の目を通して報告される中編である。明治のような、というか〈にゅう・せんちゅりぃ〉をすでに迎えていたことは明記されているのだが、年号の示す政治性や社会性がどこか希薄なのは、一貫して次のような語り口がとられているためだろう。

〈私はつい最近も、長い夜のあとの夜明けの夢に聡子お嬢様の声を聞きました。初めて私に話しかけた時と全く変わりません。綿飴のように軽く柔らかくお優しい声です。/峰子さん、きっと聡子と一緒にリボンをつけて女学校に行きましょうね。〉

 川端康成や吉屋信子の少女小説、あるいは『小公女』『秘密の花園』等の翻訳文体がどこまで意識されているかはともあれ、いわゆる古き良き少年少女小説に耽ったことのある読者には児童期の時間のゆるやかさを好ましく反芻できるはずのスタイルで、幸福な季節が回想されてゆく。

 聡子お嬢様というのは槙村家の末娘。語り手の峰子は医師の娘で、心臓病のため外出の困難な聡子の話し相手として槙村家に呼ばれ、親しく交わるようになる。名前どおり聡明、かつ印象的な容貌の聡子。それぞれ個性ある姉や兄たち、威厳と寛大さをあわせもつ当主と闊達な夫人。紗をかけたような時代設定のみならず、〈内側から光を放っていた〉〈黒目の大きな目には一点の曇りもありません〉と神話的に形容される聡子、明治の男らしからぬフレキシブルな父親など、槙村家の存在そのものがすでに美しい夢である。さらに、彼らの屋敷に〈常野〉の一家が滞在するようになると、目にみえて不可思議な出来事が起こりはじめる。

 常野とは伝説の地名にして、一族の名でもある。おもに現代を舞台にした先行の連作集『光の帝国 常野物語』においては〈権力を持たず、群れず、常に在野の存在であれ〉という意味が名称の由来とされていた。長命、予知、千里眼などの能力を持ちながらも表舞台に立つことを避け続ける人々は、本書ではいっそう脇役寄りに配されている。社会の主役ではなく一員であることを選ぶ常野一族の位置付けそのままに。

 ここで登場する常野の春田一家に顕著なのは、超人的な記憶能力である。単に記憶量が膨大であるだけでなく、〈しまう〉〈響く〉など独特の用語で表現される、人や人の創造物に籠められた思念をまるごと包んで伝える有機的な能力といおうか。聡子はやがて悲劇的な運命を自ら受け入れることになるが、彼女の境涯とおりおりの思いは春田家の幼い少年の能力を通じて遺された者たちに知らされる。消滅が忘却を意味せず、記録がデッドストックにならないことは、調和的な人間関係にもまして叶いがたい夢といえよう。

 慎ましさや思いやりが万人のものなら、この世には収奪も抑圧も起こりえない。そうしたありかた自体がありえないという絶望、そうあってほしいという希望、いずれも特殊な感情ではない。ファンタジー・SFは現在、素朴な願いや祈りをためらいなく扱える唯一のジャンルかもしれない。少女小説的な文体もまた、作家性をことさらに主張するためのツールではない。素朴な願いほど叶いにくく、叶いにくい願いほど記録と伝達に値する――多作な著者の思惑は、このあたりにあるような気がする。

佐藤弓生

初出「週刊読書人」掲載号不明(2005年?)



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