ドナ・ジョー・ナポリ(金原瑞人・桑原洋子訳)『わたしの美しい娘―ラプンツェル―』書評

 グリム童話のラプンツェルの物語に独自の解釈と肉づけを施したファンタジーである。むかし読んだテキストがどんな本に載っていたかはもう定かでなく、たしか「ラプンツェルひめ」という題名だったのもいま考えると謎だが(姫?)、それよりももっと気になっていたことがある。魔女は何のために娘を塔に閉じこめ続けたんだろう?

 ある妊婦の夫が魔女の庭のチシャ(ラプンツェル)を盗んだ償いに、彼らの新生児を供出させられたと考えるのは筋が通っている。育てて働かせるとか、有力者に嫁がせて富を得るとかいうのなら、近現代的人にはなおさらわかりやすい。だが単に塔に幽閉して、ときおりその子のもとを訪れるだけというのは……魔女の動機も目的も、童話の中ではわからない。そのわからない部分を、著者は作家的想像力を駆使して入念に描出した。

 導入部が美しい。教会改革や地動説が受容され始めたアルプス地方で、時勢にかかわりなく山あいにひっそり暮らす母娘は、自らの手でパンをこね、ラズベリーを摘み、ハリネズミの子と交流する。この具体性は「むかしあるところに」式の童話にはない、小説というジャンルの愉しみである。イトスギにごあいさつして、と娘に語りかけながら母が並木に会釈する場面が好きだ。一見、自然と穏やかに共生する人の慎ましさを思わせる。だが母親は実は“植物使い”である。

 不妊という不幸をきっかけに悪魔の声を聞いた女は、得た力で植物を操って近隣の夫婦に生まれた娘を奪い、ツェルと名づけて育てた。町へ出かけた日、母が用事を済ませるのを鍛冶場で待っていたツェルは、ある雌馬の不調を解決するのに一役買うことになる。馬の主人である貴族の若者コンラッドに礼をやろうと言われたツェルは、カモの受精卵が欲しいとだけ答える。若者に、率直で野性的な娘の面影が強く刻まれる。

 若者がいつか娘を連れ去ることを危ぶんだ母は、やはり樹木の力を借りて娘を塔の上に閉じこめた。娘が他人との絆を持つことは、母自身の心の死を意味するからである。コンラッドは何年もツェルを探し求め、ついに――というふうに、物語は娘とその育ての母と若者、三者三様の視点から綴られてゆく。母はツェルとの関係をこう振り返る。「人をたやすく愛し、その愛をだれでも返したくなるような子どもに育てた」。そんな育て方で娘を終生引きとめておくことはできまい。はなから矛盾している。母娘の家のそばには、孵るはずのない石を温め続ける愚かなカモがいた。ツェルが受精卵を求めたのはそのためだった。

 カモのアナロジーは、ファンタジーの混沌を味わうにはあからさまにすぎよう。それでも本作がまぎれもないファンタジーといえるのは、人間に「内面」を見る近代以降の精神史を継いでいることによる。昔話では、悪意や愚行は他人のわけのわからない行為に結びついていた。「内面」が発見あるいは創造されて以降、わけのわからなさは完全な他人事とは誰にも言えなくなった。意匠や舞台が古風であろうと様式性先行であろうと、ファンタジーとはつねに「現代小説」であることに著者は自覚的だ。ナポリの作品は他に「ヘンゼルとグレーテル」「ジャックと豆の木」等をベースにしたものが邦訳で読める。いずれも現代的な関係性の困難を反映しており、読書の喜びは、痛みをともなわずにいない。

佐藤弓生

初出「週刊読書人」2008年10月



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