見出し画像

さみしいと泣く子に、私が思ったこと(2024/9/6)

幼稚園の帰り、いつものように園の近くで子どもたちが遊んでいるときのこと。急に上の子(年中さん)が泣きだしました。

どうしたのか聞いてみると、年長さんたちのグループに「あそぼ」と言ったけど、「〇〇ちゃんはだめ」と言われたとのこと。他にも「入れてもらえなかったの」と言っている子がいたので、どうやら年中さんグループは入れてもらえなかったようです。

しばらく、上の子の話をうんうんと聞き、「今は年長さんたちで遊びたい気分だっただけで、〇〇ちゃんが嫌いってことじゃないんだよ」と話してみても「でも、さみしかったの」とくすんくすん。

大人の私は、「これも経験よ!こんなこともあるよ!」と思えるけれど、幼稚園と家庭が世界の全てである4歳にとっては大きな出来事だったのでしょう。「こんなこともあるよね」と思えるまでには十数年かかるだろうし。
寝る直前にも、「やっぱり、まださみしい」と言っていました。


さみしいと泣く子に私がしてあげたかったこと

悲しいことや寂しいことがあったとき、上の子は「ママ、あのね」と話してきます。(工作するときなどはパパと一緒にやりたがるので、シーンによってパパかママかを選んでいるらしい。)

そんなときに私がしてあげたいのは、落ち着くまでそばにいること、ぎゅっとハグすること、話を聞くこと。どれも時間と気力が要ることです。大変なのはわかっているけど、やってあげたい。

なんでやりたいかというと、私自身が我が子の幼児期、悔いなし!と思いたいからなんだと思います。

1歳半差の我が家の子どもたち(4歳と3歳)は、家では二人だけで仲良く遊ぶことができるようになっていて、かなり手がかからなくなってきました。

親である私を必要とするときって、日常生活を回すための必要な育児(食事の準備・送迎・お風呂など)の他には、悲しいときの寄り添い担当くらいになってきた気がしています。平常時(楽しいとき)は特に私を必要としなくなってきたというか(「ママ!見て!」と見る担当を命じられることはあるけれど)。

今後、日常生活を回すための必要な育児は少しずつ少なくなっていく。どんどん親の手から離れていく子どもに、私だからこそできる助けが必要な場面では思う存分寄り添いたい、そう思ったんですよね。

赤ちゃんの時には毎日たくさん撮っていた写真や動画も、気が付けばお出かけなどの特別な時にしか撮らなくなってきました。スマホの写真アプリを開くと、我が子の写真より食事などの写真が増えてきて、意識しないと思い出を残せないと感じるように。

写真や動画には残っていない日常の出来事は、一緒に味わいたいなぁと思うようになってきました。

数年後、子育てを振り返ったときに「あのとき、あぁしていれば」と後悔することがあるとすれば、それは私の場合、一緒に過ごす物理的な時間の量かも、そう思いました。

一緒に過ごす時間があるからこそ、感じられる成長や共有できる思い出があると思うし、子どもが私を「悲しいときに寄り添って欲しい人認定」をしてくれるかどうかにも関わるんじゃないかと思ったのです。

子どもの育つ環境に個人的に興味があるので、今の子どもたちはどんな場で育っていくのかをしっかり見たいし知りたいという好奇心もあります。

「ママ、あのね」と言われたときに「あとでね」と答えてそのままタイミングを逃すことが無いように、時間に追われることなく話を聞けるように、余白のある自分でいたいと感じました。

とはいえ、一緒にいる時間が長すぎるとイライラすることもあるんですけどね(笑)
だから、私のコンディションを整えるのは最優先事項!そう思ってます。

そして、余白のある自分でいるためにも段取りや努力が必要。働く時間を短くしても満足できるような収入と仕事内容にする、とか。頑張ろう、私!


寂しいとくすんくすんと泣く子どもをぎゅっと抱きしめながら、『そうだ!私はこんな時間を大切にしたかったんだった。』泣く子には悪いけど(笑)ハグしながら考えさせられたのでした。

この記事が参加している募集

読んでいただきありがとうございます^^いただいたサポートは絵本購入に使わせていただきます。