8/1 『ヘヴィ あるアメリカ人の回想録』読書会@忘日舎 〜清田のメモから〜

コロナウイルス感染爆発状態によりオンライン開催となった読書会。立ち上がりは不安だったが蓋を開けたら21名の方々がご参加くださり、ありがとうございます。また今回、みなさん読み込みが深くてメモを書く手が止まりませんでした。そのなかの一部、まとめました。知識も浅いうえ、あたふたと現場で司会をしながらとった、私のメモと記憶を頼りにしたまとめ。抜けもある不備なメモなもので、あくまで私(清田)の主観として、印象に残ったことを、ここに記しておきたいと思います。

訳者:山田文さん

*昨今ブラックライブズマターの盛り上がりとともに、黒人文化や文学は日本でも紹介されてきており、日本で出すには良い機会なのではないかと思った。が、何よりも、この本が面白かった、内容に惹かれたということが大きい。最初のページを読んだときから面白かった。加害と被害の流動性や、敵対味方ではない視点、著者の誠実な人柄にも惹かれた。表現は内容と一体となっているものだとは思うが、本書は黒人文学というより「レイモン語」というのがふさわしいような言語で、独特。著者の考え抜いた言葉を日本語に訳し変えるというのは、別物になってしまうことでもあり、それは著者がつねに他者に対して悩み抜いた「暴力性」を帯びた行為なのではと、訳しながら悩んだ。

本書は「回想録」という形をとり、黒人作家が歴史的に採用してきたスタイルで、有名なところでジェイムズ・ボールドウィンやタナハシ・コーツなどがいる。ジェスミン・ウォードは本書の大ファンで、キエセ・レイモンとオンライン対談も開催した。そのなかで語られた創作裏話。レイモンは、本書でも「推敲」の必要性を母から説かれているが、実際相当何度も推敲を重ねた。構成も現在とは異なり、母、祖母、恋人、未来の娘に向けて書かれた構想があった。だが、母に向かって書いたところがいちばんしっくりきて、全部そのスタイルで書き換えた。とはいえ、コーツやボールドウィンと異なり、レイモンが語りかける対象は、いずれも女性。いっぽう、編集者はほとんどいつも白人で、黒人作家も白人に向けて書くことになる。彼の小説『Long Division』(未邦訳)は一度出版されたが納得がいかず、2021年に書き換えられて再出版された。

ジェスミン・ウォードとキエセ・レイモンの対談動画はこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=6qUdP0eQKPk&t=4s


*新田啓子さん

緊張を強いる本である。本書は「噓」がキーワードとなって進行していくが、噓とは、マイノリティ文学において歴史が深いテーマであり、至上命題のようなもの。セルフライティングでそれをやるというのは非常にリスキーな挑戦だったはずだ。2016年に本書がアメリカで出たことは意義深い。アメリカの噓と真実がわからなくなった時代、キエセ・レイモンは歴史的な文脈のなかでこの本を書くに至り、内省とともに自分の言葉を叩き上げている。ギリギリの経験を語るということは、アメリカの問題でもあるが、日本でも、文学として問いを投げかける普遍的な内容である。

アメリカで黒人の人口がこれほど増えたのはなぜか。奴隷制、つまり人種主義は、女性の生殖能力を繁殖のため、奴隷を増やすために使った。家族、などという概念ではない。だから、キエセ・レイモンという男性作家が母に着目しているという点は非常に興味深い本である。

(その他もたくさん興味深いお話ありましたが、メモが足りず・・・すみません)

参加者のみなさんの感想

*過食で依存症状態だった少年時代のレイモンが、パンを盗むくだり。パンを盗むことが白人への仕返しになる、奪われたものを奪い返すという感覚にハッとした。

*学生で、DVや虐待などの問題を研究している。加害被害の両面が描かれているところが興味深い。内省力を鍛えるには人生とどう向き合えばいいのだろうか。

*自分がされたことのみならず、自分自身がしたことも書くというところが特徴的。彼の人生はつねに白人の目をいかに意識せざるを得ないかということを伝えている。

*アメリカで、黒人で女性であるということは歴史的に重い課題を背負わされている。その重さを抱えた母親が育てる人間が、無辜なる人になるのは難しいだろう。「黒人は白人の2倍優秀でなければならない」というレイモンの母の言葉が印象に残った。

*黒人の内側でいかに暴力や排除が起きているかということを痛感した。ブラックフェミニズムの複雑さを思い知った。

*日本で生きてきた自分がいかにおめでたい人間かということを感じながら読んだ。「Been」で始まり「Bend」で終わる。「歪み」で終わるというこの本の構成に著者が託した思いを考えながら再読したい。

*他人を批判することに著者はつねに批判的だと感じる。他人を批判した言葉は自分に向かってくるということを意識しているのではないか。ボールドウィンがフォークナーを批判するくだりで、レイモンは「自分が言われているような気持ちになる」とある。山田さんの冒頭の話で、未来の娘に向かって書いたという構想があったというが、ボールドウィンは『次は火だ』で甥に向かって書いている。この違いは大きい。

*本書で母が正しい言葉を使えないと、それなりの階級の仕事ができないと息子に諭す。私はイギリス暮らしが長いので、イギリス人の「RP(特定の階級の人が話す言葉。かつてBBCのアンカーはRPでなければならなかった)」のようなものがアメリカにもやはりあるのだなと感じた。

*まだ読んでいないが、奴隷貿易やデュボイスなど授業で知り、勉強している。個人の視点から普遍的な問題を聞けるということ、差別の流動性など、興味深いテーマがたくさんある本だと感じている。

*24時間白人に対する姿勢を問われているとはどのような状況、心境かということを、この本は描いている。

*母が背負わされるものの重さ

*加害と被害の一体性について。加害と被害は混じり合っているものである。圧倒するもの・されるもの、男・女、教師・生徒、など、はっきりその立場が別れるわけではない。

*母が少年期の著者にレポートの提出を強いている。しかしそれにより著者が救われているということが印象的だった。

*黒人男性の一人語りに興味があった。ブラックアバンダンスを忘れてしまい、白人を挑発することに夢中になっていた、というくだりが印象的だった。

*母とバスケをしているシーンがうらやましかった。リチャード・ライトがアメリカを離れる理由がわかる、という著者の気持ちにハッとした。

*ブラックアバンダンス、この言葉をまだ消化しきれていない。この言葉をめぐって皆さんの意見を聞いてみたい。

→山田さん:ブラックアバンダンスは、「ブラックパワー」とは明らかに違う。

→清田:トニ・モリスンの小説に出てくる世界ともつながるもの?清濁併せ持つような世界。本書ではジャバリのくだり。彼女の体臭を問題にする白人社会と、彼女の体臭のことは知っているけれど、彼女を「臭い」とは僕らは言わない、というレイモンたち仲間の世界との違い。

*「ぼくらは白人のことを知っていたけど、白人はぼくら黒人のことを知らなかった」というくだり、とても端的な表現であるが、すごく現実を言い当てている印象的な。無関心の側に知らず知らずのうちにまわっていることが自分もあると気付かされた。

*日本でも読まれるべき普遍性のある物語。日本では西村賢太の小説などと近い印象があった。

メモには以上です。

とても深い洞察、考察をいただいた今回の読書会。21名と想定よりもたくさんの方々にご参加いただき、お一人のお話いただく分数が限られていましたが、たくさん示唆をいただける充実した会でした。リアルであればディスカッションも可能でしたが、オンラインという限られた場のなかで、あれほど多様な深い読み込みを分かち合えた意味は大きかったです。本当にありがとうございました!