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パーキング・エリア



23時50分、名古屋から東京まで。3列シートに両膝をたててうずくまる。かすかな乗り物酔いの気配を押し込めるように、お腹を押さえて。

誰かのいびきにいらいらして、耳栓がわりにイヤホンを詰める。適当な曲を流して、ぎゅっと目を瞑る。妄想にふける。
次の、次のパーキングエリアまで。
淡くコンビニエンスの光まで。


子供のころ、10数年くらい前の記憶。そこはとても暑い。ジメジメとした記憶が、いつでも強く思い出される。
日が落ち、青い空気の中を力強いスピードで駆け抜けていく。廃れた「おかえりチャイム」が馴染んでいく風景に、濡れた土の匂い。うす黄色い家の灯が瞳をするりと過ぎる。 

私は自転車の荷台から見ている。

自転車は速い、しゅんしゅん飛ばす。それは歳が6つも離れている姉が漕いでいるからだとかいう話ではなく、姉のスピードはいつも必要以上だ。

何かにぶつかれば、一溜りも無く砕け散るだろうというほどに。
私はいつもそれが怖くて、ほとんど怒ったような声で姉に言うのだ。

「やめて、やめて、ゆっくり帰ろうよ。」

スピードを緩めてほしくて、姉のお腹にまわした腕をきゅっとしめる。
はやいよ、こわいよ。

切る風に混ざった姉の声。

「じゃあ降りなよ、先帰るから」

泣きそうな私をからかうように笑う声。

「いやだ、それはいやだ、おいて行かないで。」

姉の腰がぐっと上がる。ペダルに体重がかかって、自転車はさらに速度を上げる。私はもうそれ以上何も言えなくて、目を瞑って姉に身体を押しつける。
むき出しの足を背の高い草が掠める。スピードのせいでムチのように痛い。
私の体温で湿った、姉の背中。
姉は痛くないのだろうか。

おかえりチャイムに合わせて、姉が歌い出す。朧月夜、高い姉の声がさらり滑ってゆく。
深く、強く上下にペダルをこぐ姉の体に合わせているように、空気の青も、どんどんと深くなって。藍色にじんわり滲む夜の色。ガビガビチャイムと高い声。自転車に乗った私と姉。

あの頃は本当に怖かったのだ。速くて、怖くて、永遠だと思っていたあの時間。今思えば深く一瞬だった。
それは青深く、まるで自転車のように目の前を軽やかに駆け抜けた時間だった。

バスは速い。深夜の高速を飛ばす。こうこうと光るオレンジの街灯が等間隔に過ぎていく。
車内は暖房が効きすぎていて、頬の上が熱い。灰に布が被せてあるように息苦しい。窓の外は涼しげに風を切る。
冷たい窓に張り付いて外をみると、息苦しさが少しだけ軽くなった。ふんわりと頭の上にいる酔いも、すりきれたリピートも、高速の静かな空 気に紛れて自分から遠くなって、そうしているうちに思い出せなくなる。

今だって、姉を思い出した時のことを思い出しているだけだ。
随分と前のことだから、ほとんど妄想みたいなもので、どこからが嘘だとか本当だとかも、もう気にならなくなった。記憶はいつだって私の目の前を、ものすごい勢いで去っていく。

彼女の人生も同じだった。風を切ってここから過ぎた。
バスは感傷的になる。暗い車内も騒音のストレスも、景色も酔いも全て混ぜこぜになって感傷が広がっていくのだ。

車体がやんわり左に外れてパーキングに入る。大きく体が傾いて、酔いが少し戻ってきた。ぼんやりと奥にコンビニエンスストアの光。

バスはなだらかなスピードで停車する。足元に柔らかく照明が灯って、最前席のカーテンが静かに開いた。2時間ごとの休憩だ。


からだの外側は暑いのに内がいやに冷えるのが気持ち悪いから、コーヒーでも飲むことにした。

淡い光の下で、遠くに霞む高速をぼうっと見つめる。猛スピードで過ぎ去る車を見送る夜。姉もこの道路で死んだ。

姉は名古屋から東京への高速に乗っていた。社会人になってから、こつこつと貯めたお金で車を買ったばかりだった。

思い出すしかできないものはもう悲しむ権利さえない。ただすり減らしながら事実を曲げていくだけだ。
なのに、むしょうに悲しみぶりたくなる。本当にむなしい。もう姉には会えない。

私も姉が居ない生活に、体が馴染んでしまった。
この寒空のしたで本当にそう思う。私はここまで来てしまった。

爆音のコーヒーマシンをバックに流しながら、ここにいる私の、胸までほどしかない背の姉を思う。
かつて歳上だった彼女、私よりずっと小さかった手。うるさい妹を荷台に乗せる帰り道、あの自転車から見た景色。ビニール袋に詰められた姉の服、胸いっぱいに吸うとまだそこに姉がいるように思えて痛んだ。何度も何度もリバースして、今はもう針が触れないほどの距離にいる。

こうして全てが遠くなっていく。私と向こうが見つめあいながら離れて、感動的になっていくのだ。
あと3時間。あと3時間こうしているだけ。コーヒーを喉に流してバスに歩き出した。私はここまで来てしまった、私はもう、姉より早く自転車が漕げるようになったのだ。


25時20分発、名古屋から東京まで。3列シートに両膝をたててうずくまる。かすかな乗り物酔いの予感を押し込めるようにお腹を押さえて。

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