「スワロウ」(カーロ・ミラベラ=デイヴィス、2019)

この映画の主人公は”自由”である、あるいは”自由”であろうとしている。

「異物を飲み込む」という行為自体は、当然、医学的にも生物学的にも許されたものではないという指摘や、抑圧されている現状への抵抗という、彼女自身が置かれた境遇を寓意的に表したものなのだといった指摘を承知の上で、「異食症」=既成概念からの解放=自由に繋がるものとしての、「映画的自由」としての異食症が描かれていたのだということを推してみたい。
つまり、「食べ物ではないモノを飲み込んでしまった主人公は、”映画的に自由”である」という観点を前提として、この映画の感想を述べてみたい。

この映画の特徴は、①音と、②トイレではないだろうか。
主人公は抑圧された存在である。主人公が自らを自分から表現することは、決してない。そうであるが故に(必然的に)、映画という装置は映像や音でもって彼女の思いを代弁するのである。この映画の音は、彼女の思い、叫びである。
SEの音量が、これは確実に故意にやっているに違いないのだが、明らかにバグっているのである。そのモノからそんな音が出るはずがない、あるいはそんな音量で音が出るはずがない、と思えるシーンの連続なのである。
料理をつくっていて、野菜を添えているシーン。普通、野菜を添える際に、下手したら音なんて出ない。にも関わらずあからさまな「タッ、タッ」という音が出ている。
スマホのゲームも、独特のSEが発せられるからこそあのような形式のゲームがチョイスされている。「夫に隠れて何かをする」という主人公の境遇を表現するためである一方、あきらかに、「音を出す」という目的のために「ゲームをする」という演出がなされているのである。
BGMも音割れではないのか、と思わざるをえないところがあった。音がバグっている。
極めつきは氷を頬張るシーンだ。
音量もさることながら、このときのヘイリー・ベネットの表情が至高だ。口の中の氷が砕ける「ボリッ」という音に彼女の叫びを委ねることができているにも関わらず、”思わず”という感じで、彼女の顔が恍惚に満ちている、つまり、彼女自信が”思わず”自らを表現してしまっているのである。
これは、「映画という装置が彼女の思いを代弁している」という見地に立ってみた場合、”過剰演出”になっているのだが、意図的な過剰演出であるからこそ、素晴らしいシーンなのである。

この、「映画という装置=主人公の代弁者」の構図は、後半以降から徐々にその傾向を減じていく。カメラワークは手持ちでブレ始め、音量は普通になっていく。それは、主人公が自分の意志で行動するようになるのに呼応している。

最後のエンドロールは女性用トイレである。トイレが出てくることがやたら多く、最後の最後もトイレだ。
トイレは、この映画において(この映画の主人公にとって)「自分の意志を貫き通せる場所」だ。なぜなら、監視者の目が行き届かない唯一の場所が、トイレだからである。
トイレに駆け込むことで物事が動転し、ギアが加速し始める。この映画のトイレは、マクガフィンとして使われている。トイレを、排泄のための「トイレ」として描写しているシーンなど皆無であるのだから。

マクガフィンは、マクガフィンそのものに言及された時点でその勢いを失う。この映画は、エンドロールという特別なタイミングにおいて、他でもないトイレ=マクガフィンを映す。「女性」という型に自らをはめていく女性たちが、入れ代わり立ち代わり現れる。
「監視者」が介在しない中で、彼女らがその「監視者」に適応すべく化粧直しをしているのを見ながら、主人公が成した行為とは何だったのだろうかと、一方で思いを巡らす。その現場としての「トイレ」に、映画も観客も双方が言及し、最後に全く笑えないツッコミを粋にふっかけて漫才を終える漫才師のように、勢いを失速させていきながらこの映画は終わる。
何という上品さだろう。

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