4.3 「呼吸法」の表現法・指導法の3種類と、学習者としての付き合い方

(旧サイトの「オンラインレッスン」記事のアーカイブです。2017-02-22の記事です。)

管楽器の呼吸については、実に様々な説明や指導のなされ方があり、学習者の最も混乱するテーマとなっているのが現状であろうと思います。

そのような状況の中で、管楽器を演奏する際の呼吸について考える・教わる時には、以下の3種類を区別して認識しておく事が、練習と向上に役立つと私は考えています。

呼吸に関する説明や指導は、大きく以下の3種類のどれかに当てはまるのではないかと思います。

1) 感覚的な(イメージ的な)表現
2) 客観的事実としての身体の動き
3) 客観的事実としての動きと感覚とのつながり
番外編) デマ情報


1) 感覚的な(イメージ的な)表現

「お腹に息を入れる」「背中に息を入れる」「足から吸う」「頭の先から吸う」「肺の底から息を溜める」など、客観的な事実としては人間の身体には起き得ない事ではあるものの、感覚・イメージとして使用される表現。

最も伝統的・古典的な説明の仕方と言う事ができるかもしれませんし、「吹ける人」が自身の感覚として抱くものをそのまま感覚的な言葉で表現したものと言う事ができるでしょう。

事実としては起きない、という点で、それそのままをしようとすると混乱や弊害を招く事がある一方で、演奏者としての感覚、という点では意味を持ちます。

2) 客観的事実としての身体の動き

感覚的表現とは対照的に、人間の身体の作りと動きとして、客観的事実として起きる動きを説明するものです。

呼吸に関わる身体の部位、例えば、肺、肋骨、横隔膜、頸椎、骨盤底、各筋肉、などを主として、それらの位置や大きさ、そして連動した動きを、客観的事実としての見方で正確に捉えようとするものです。

客観的事実として起きる事の記述であるため、思い込みや誤りをリセットし正す事ができる、弊害を生みにくい、といった利点があるでしょう。
一方で、これはあくまで客観的分析と記述であり、その事実をいかにして発動させるのか、つまり演奏者としての実践上の感覚とは切り離されている、という点を認識しておく必要はあると思われます。

3) 客観的事実としての動きと感覚とのつながり

客観的事実としての動きが、いかに演奏者の感覚として発動されるのか、というつながりを捉え、実際の演奏行為に矛盾のない形での理解と実践を得ようとするものです。

人間が意識的にコントロールできる事とできない事、感覚フィードバックが鋭い部位と鈍い部位(動きや状態を自分で感じ取り認識できる部位とそうでない部位)、などを踏まえ、演奏者が実践をする際に、感覚・意識と身体の動きとがどのような繋がりを持つのか、を理解しようとします。

番外編) デマ情報

ネット上にある、「○日で△倍に肺活量が増える方法」など、あり得ない事のデマ情報。電力と時間を大切に。

付き合い方のアイディア

我々が呼吸に関する説明や指導に接する時には、以上の3種類のどれかに触れる事になるのではないかと思いますが、どれからでも、我々は学ぶ事のできる点があろうと思います。
そのためには、呼吸に関する説明や指導を受けた時に、それがどの種類のものなのかを見極める事が役立つのではないでしょうか。
それによって、その指導からの最大限の学びを得る事ができる(言い換えれば、弊害を受けるのを回避する事ができる)と私は思います。

例えば、「お腹のもっと下に息を入れなさい」という指導を受けたものの、そうしようとするとどうもうまくいかない、という時には、「これは客観的事実を言っているのか、それとも感覚的な表現なのか、どちらなのだろう?」と考えてみます。
少し調べれば、空気はお腹には入らず、肺にしか入らないという客観的事実を知る事になるでしょう。
そうしたら、「じゃあなんで、そうは実際はならないのに、『お腹に息を入れる』なんて表現をするのだろう?」と考えを進めていきます。「事実としては起きなくても、もしかしたらそのような『感覚』は生じるものなのかな?」と。
そしてさらに調べれば、肺に空気が入る事と、その下に位置する横隔膜の動き、それによるお腹の動きと感覚、という事に行き着くかもしれません。簡単に言えば、「肺に空気が入ると、横隔膜が平らに下がり、それによって腹部の内臓が下に押され、お腹まで影響が及ぶ。だから『お腹に息を入れる』ような感覚的表現になる。」という事を知るでしょう。
さらに言えば、「じゃあ、自分が意識的に直接的にお腹を動かそうとすればいいのか、それとも、お腹は結果的に動くのであって、起きる事実と奏者が持つべき感覚とは別問題なのかな?」と進めると良いかもしれません。

この例はよくある一例にすぎませんが、このように、呼吸の説明や指導のなされ方にはいくつかの種類があり、それを踏まえておく事によって、目の前の説明や指導がどれであり、そこから自分はどう考えていったら良いのか・どう理解し実践していったら良いのか、を見極める事は、練習や向上の助け(または無用な惑いや弊害を回避するフィルター)となるのではないでしょうか。

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