演劇と映画の違い

1.演劇とはサービスである

突然ですが、演劇と映画の違いとは何でしょうか。よく「演劇はナマモノ」という言い方がされますがこれはどういう意味なのでしょうか。
映画と演劇の違い、それは、ずばり、モノとサービスの違いだというのが私の考えです。

2.映画と演劇の属性上の違い

経済学では、モノは物質的財に、サービスは非物質的財に分類されます。
そして両者の属性上の違いに目を向けると、演劇はサービス的であり、対して映画はモノ的だということがわかってきます。
以下でモノとサービスの違いを映画と演劇を例にとって列挙してみます。

a.生産と消費の分離性
モノ(有形財)は、その生産と消費において
場所的、時間的に分離しています。
映画で言うと、撮影所なり、ロケなりで撮影を行い、そのフィルムを現像し、ミキシングされた音声やSEと一緒に編集し、完成します。
それが配給会社を通じて全国の映画館、あるいはDVD化されて店頭に並ぶわけです。また在庫も可能です。

これに対して、サービス(無形財)は、その生産と消費が同時になされます。また極度の時間的腐敗性と消費者自身による臨場性をもちます。
演劇に例えると、観客は俳優の演技を幕が下りた後観ることは出来ないし、劇場の外では観られません。
したがって、生産即小売であり、通常の流通業者的意味での卸売の介入は不可能です。

b.生産への消費者の参加性
これは、消費者がサービスの購入に際してサービスの提供されるときにその場(生産)に出向かわなければならないということです。
演劇も、上演を録画したビデオやDVDといった媒体によって有形化することが出来ます。
しかしそのサービスは現場に臨場した時の興奮とは異質のものとなります。
有形財と消費者の関係は、モノと人間の関係であり、サービスは、これを提供する人間と受ける人間の関係です。
言い換えれば、有形財は、常識的にいって
相手、場所、時間を問わず画一的な機能を発揮しますが、サービスは、その提供者と受容者の間のコミュニケーションや人間関係によって異なった成果をもたらします。

c.一過性と非一過性
有形財は、その物理的形質が存在する限り、
何回も消費(使用)出来ます。
映画は保存しているメディアが壊れてしまわない限り、何度でも観ることが出来ます。また返品や交換も可能です。
これに対して無形的なサービスは、その一般的な属性のために、こうした補償や保証によって顧客のリスクを防止することが困難です。

d.規格化・基準化
有形財は、生産過程や流通過程での品質管理を厳正に実施することができるため、高度の規格性を持ちます。
映画は予算と時間を度外視すれば、物理的には何度でも撮り直しや編集が可能です。
これに対して、人間によって提供されたサービスは提供者の人間的要因との係わり合いが大きく、規格化、標準化が困難です。
映画と違い、演劇の場合は「昨日観た芝居すごく良かったよ」という評判を聞いて劇場に行っても、絶対に昨日と全く同じ芝居を観ることは出来ないのです。

e.所有権の移転
有形財は、私有財産制度に基づいて、所有権移転の対象となります。買った映画のDVDを友達にあげても問題ありません。お金さえ出せば、原版のフィルムでさえ買うことが可能です。
これに対して無形財であるサービスは、使用権の移転があるのみです。つまり芝居のチケットを人にあげることは出来ますが、実際に演劇というサービスを受けることが出来るのは、「いま、ここで」芝居を観ている人間だけということです。

以上が演劇と映画の属性上の違いです。

3.演劇の良いところは現実感

私が考える演劇の最大の特徴は「生産への消費者の参加性」です。
演劇は観る人(消費者)がいなければ成立しません。
演劇が成立する最低条件は、「やる人」「観る人」「やる場所」と言われています。
演出家や舞台監督や照明音響は現代演劇においてはほとんど欠かせない存在ですが、もしいなくても演劇は成立します。また台詞すらない芝居だって存在します。
しかし、上で挙げた三要素はそのどれが欠けても演劇としては成立しません。
つまり演劇とは「どこかの場所で、俳優と観客との間で起こるもの」と定義することが出来ます。これは無形財である「サービス」の成立条件とほぼ同じです。

また先ほど「演劇も、上演を録画したビデオやDVDといった媒体によって有形化することが出来るが、そのサービスは現場に臨場した時の興奮とは異質のものとなる。」と述べましたが、これはリアリティの問題です。
リアリティというのは、現実感のことです。
どれだけ撮影技術や録音技術が進歩しても、
ビデオやDVDというモノ化したサービスと、劇場へいって生の演劇を観賞することから消費者が得る経験とのギャップをゼロには出来ません。
もしこのギャップをゼロにすることができるならば、即座に演劇など、ただただ古臭く、非効率的な、前時代の芸術になり果ててしまうでしょう。
逆に言えば、このギャップがあるからこそ、
演劇はいつまでも新しい、刺激的な芸術表現となりうるのだと思います。
なぜならこのギャップは、生きた人間としての俳優と、同じく生身の人間としての観客の
直接的相互関係の有無に由来するからです。
道端で宣伝の看板を持つアルバイトというものがありますが、これは生身の人間というのは、ただそこにいるだけで人の目を引く力があるという効果を利用したものだそうです。
劇場で話す俳優は確かに「いま、ここで」観客の前に立ち、相手役もしくは観客とコミュニケーションをしているのです。
劇場に居合わせた観客は、その場所で生身の人間たちが繰り広げるあらゆる事件を、実際に目撃するのです。
言うまでもなく、そのリアリティは映像の比ではありません。
極端に例えれば、映画が旅番組だとすれば、演劇とは旅そのものなのです。

4.映画は人類の遺産

では映画の特徴はなんでしょうか。それはメディアを複製することが可能なこと、そして「遺す」ことが可能なことだと思います。
一つの映画を世界中に何万とある映画館で同時に上映することも理論的には可能です。こんなことは演劇には絶対出来ません。
そしてメディアさえきちんと保存してあれば、私たちは撮られた当時生きていた人が一人もいなくなった後でも、映画を鑑賞することが可能です。言うなれば人類の遺産を生産することが可能となるわけです。
つまり映画と演劇は全く別のものなのであって、映画には映画にしか出来ない表現があり、また演劇には演劇でのみ可能な表現があるのです。
ある人は「映画と演劇はピアノとヴァイオリンのように違う」と言いました。

5.イマジネーションとコミュニケーション

経済学の世界では物質的財の生産こそ社会生活の基礎であるとの考え方から、専ら物質的財が重視される傾向にあります。
それは、サービスなどの非物質的財が、人間の生命維持にとって、間接的重要性をもつに過ぎず、その意味で社会生活の基礎を構成する主要素から外されるべきであるという考え方からきていると考えらます。
たしかに演劇を観なくても人間は死にません。しかし、コミュニケーションは人間にとって絶対になくてはならない概念です。
それは、ポスト構造主義者の指摘をまつまでもなく、人間は他者とコミュニケーションを取ることでしか自分が自分であることを確認できないからです。
現代演劇は、「イマジネーションとコミュニケーション」の演劇だと言われています。
この二つの要件はそのまま、人間にとって最も大切な要件と言えます。
そしてこの二つこそ、今の社会に最も欠乏しているものではないでしょうか。
数えきれない人が他者とのコミュニケーションにおいて、重大なディフィカルティを抱え、精神を摩耗している現代社会において、演劇は古臭い表現ではなく、まだまだ無限の可能性を秘めていると思います。


この文章を書くにあたって二つの著書、
浅井慶三郎氏の「サービスとマーケティング」、平田オリザ氏の「平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために」を参考にさせていただきました。

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