気持ちを表現する演技はダメ

演技とは、語られることを拒否するように成立しています。それは語るものではなく、生きるものだからです。
演技を語る言語世界は、常にプレロジカルな領域と、ロジカルな領域とのはざまを旋回しながら、あやうい均衡の上に成り立っています。

今の日本で、経験者、非経験者に関わらず、
何かが「演じられる」時、それは必ずどこか新劇の影響を受けていると言っていいと思います。
それほど新劇はかなり長い間、日本の演技に影響を与え続けてきました。
その影響の中で、良い意味でも悪い意味でも
最も根深く、強烈なものが、いわゆる、「はじめに気持ちがあって、言葉と動きがある」という概念です。

以下に実例を示します。
(といっても実在の演劇人を名指しで批判すると角がたつので、「ガラスの仮面」から劇団月影の田代先生にご登場いただく。)

「北島!なんだきみのその編物のとり方は!いったいベスがどういう気持ちで編物を手にとったかわかっているのか!」

「(気持ち…?)あの…シナリオに編物をとれって書いてあったから」

「ただ編物をとればいいってもんじゃない!きみの演技にはまるで裏づけができてないんだ!」

「裏づけ?」

「そうとも!まず気持ちがあって、その気持ちが動作やセリフを言わせるんだ!この時ベスはどんな気持ちだったか」

ここでまず注目すべき点は、演じる主体の注意は、編物ではなく、「自分の心」に向けられていることです。はっきり言ってこれは「ダメな」演技の根源です。

相手役を見ていない、相手の話を聞いていない、相手に集中していない、というのは、役者に対するかなり一般的なダメだしですが、この原因こそ「(自分の)気持ち」を大事にする演技にあります。

もちろん「気持ち」がいらないと言っているのではありません。
しかし、実際に板の上で演技をする際に、「(自分の)気持ち」ばかりを大切にするのは、ダメです。

ごくごく簡単に説明すると、気持ちというのは役として与えられた環境で行動すれば勝手に生まれるものであって、無理に気持ちを作ろうとするとおかしなことになるんです。

現代演劇における演技とは、決して自分を見つめる主観から生まれる表現ではなく、自分の外側に対する反応です。自分の外側に対する反応というのは、自分以外の人間や、世界そのものに対する興味です。

では「気持ち」を大切にした日本の新劇とは何だったのでしょうか。

演劇史の研究をしている人にお叱りを受ける覚悟で、ごくごく簡単にまとめます。

開国し、日本の世相が大きく変わった。
だから従来の歌舞伎などの芝居では、実際の世界を表現できない。
演劇を改良しなくては!ヨーロッパをお手本にしよう。

といって、新しい演劇を作る動きが活発になっていきました。
しかし、当時はまだ洋行出来る演劇人も少なく、仕方なく(?)海外の戯曲や演劇書を翻訳し、研究しました。

今となっては冗談みたいな話ですが、当時翻訳ものを上演する時、その芝居が上演された時の絵葉書を取り寄せて、その形を真似て演出されていました。
また、西洋的な身振りを「型」として学習させるために、来日中の西洋人が呼ばれることもありました。
文芸協会が「ハムレット」を上演する際に、
身体の動かし方を指導したのは、ケート婦人と呼ばれるイギリス人でした。
むろん、演劇とは何のかかわりもない一般の女性です。

しかし人間を表現するには、どうやら「型」ではなく、「内面」を重視しなくてはいけないことがうすうすわかってきました。
そんな中1900年代頃から、すでに日本で力を持った演劇人が洋行して、現地の芝居を観ました。

それがものすごく良かったので、いたく感動し、日本に帰ってきて、「演劇はこうでなくっちゃ」といってはじまったのが、新劇のルーツなのです。

でもここで、大きな問題がありました。
それは洋行して現地の演劇を観て感動し、日本に帰って来た演劇人は、俳優を指導するにあたって何のノウハウも持っていなかったことです。
松居松翁はロンドンの演劇学校に足掛け3ヶ月ほど通いました。左団次に関しては3週間です。

しかし、常識的に考えて歌舞伎俳優が数週間で現代演劇の演技をマスターすることなど不可能です。まして指導者にはなり得ないでしょう。しかしそれは起こってしまったのです。

左団次が演劇学校でとりわけ感心を寄せたのは、デルサルトの下で学んだ女性教師の「表情術」でした。
洋行帰りの演劇人たちは「日本人は表情が貧弱でいかん」といって、演技の場で積極的に顔の表情を指導しました。

「表情を作る」というのもこれまたダメな演技の典型です。

ここでまた田代先生に登場していただきます。

「そこ!なにしてる!演技しなきゃだめじゃないか!」

「あの…あたし、してるんです。笑えっていったから。あの…笑ったんですけど…」

「なに?さっきのあれが笑いの表現か!他のみんなをみたまえ!全身で笑いを表現している!きみは表現力が乏しすぎるぞ!」

「すみません」

実際に100年前の日本で、このような指導が行われていたかどうかはわかりませんが、田代先生の怒りの根拠は、元をたどれば左団次でしょう。

現代演劇の演技で、特殊な状況を除いて全身で笑いを表現することが求められることなど、ないです。

そして、黎明期の新劇にさらに大きな間違いが起きます。
それはスタニスラフスキーシステムの歪んだ受容です。

演劇史上では、新劇はスタニスラフスキーシステムを「直輸入」し、発展したことになっていますが、実際にはイギリス王立演劇学校のように、システムが実を結ぶということはありませんでした。

理論的にも十分理解されているとはいいえないし、実際的には、日本の俳優演技に有機的に取り入れられて、新しい俳優演技が創造されるまでにはいたっていません。

悲劇はそれだけにとどまりません。
内容が正しいか正しくないかに関わらず、スタニスラフスキーという名前は新劇によってとても有名になり、戦後現れたアンチ新劇の演劇人から、「スタニスラフスキー」もろとも否定される事態が起こってしまったことです。

つまり「新劇はダメだ。その新劇がお手本にしているのはスタニスラフスキーだ。だからスタニスラフスキーもダメだ」という負の三段論法が、広く浸透してしまったのです。現代でも一部の演劇人はそう思っています。

もう多くの人が言及していることなので、今更ではあるが、ここにはっきりと明言します。

新劇の黎明期の演劇人はスタニスラフスキー・システムを理解していませんでした。
そして現実には、スタニスラフスキー・システムは、世界の現代演劇における演技のスタンダードになっています。

ではなぜそのような誤解が生まれることになったのでしょうか。
この原因はかなりはっきりわかっています。
これも諸説あることなので、学者の先生に叱られるのを覚悟で私の意見を書きます。

小山内薫という人が元凶です。(こんな言い方をしたらますます怒られる)

小山内はモスクワに25日間滞在し、20本の芝居を観ました。この時にスタニスラフスキーの芝居を観て、感激し、直接会って話もしています。

しかし、この時の小山内は舞台上のスタニスラフスキーに心酔したのであって、スタニスラフスキー・システムを学んだわけではありません。
そもそも1912年という年は、スタニスラフスキー自身がまだ演技に関して模索している段階であり、体系的なシステムは構築されていませんでした。

まして小山内はモスクワ芸術座の稽古に立ち会ったわけでもありません。
舞台を観ただけで、その稽古方法まで習得することはおよそ不可能です。

それなのに小山内は舞台という結果だけを観て、稽古という過程を全く見ぬまま帰国し、日本で「スタニスラフスキーは云々」と言いながら、相変わらず絵葉書とケート婦人で芝居作りに勤しんだのでした。

日本で能を観て感動した外国人が、稽古も見ずに、花伝書の訳書を片手に「能とは…」とやっている姿を想像するとどうでしょうか。これが日本におけるスタニスラフスキーの受容の正体です。

日本ではスタニスラフスキーの「俳優の仕事」が1930年代に英語からの重訳で邦訳されました。訳者の山田肇が「不備な点が多々ある」「切に御叱正を賜りたい」と自ら告白しているものです。

その結果、日本の演技は「歪んだ」形で発展することになりました。

ここで話を「気持ち」に戻します。

なぜ日本の近代演技は伝統的に「心」を大切にしてきたか。

ここにも小山内薫が一役買っています。
小山内が何にでも熱中する性格であったことはよく知られていますが、小山内は1920年頃に大本教という霊魂の存在を認め、霊界との交信可能なことを認める新興宗教に入信し、かなり傾倒していたようです。

さらに、小山内は大本教に入信して以後も「心」について熱心に研究しています。
ヤコブ・ヴェーメやスウェーデンボルクの神秘説を研究していたようです。

そして小山内はフリードリヒ・カイスラーという人の文章を紹介しながら、「役を演じるものは霊魂であって肉体ではない。肉体は媒介、器具である」と考えるようになりました。

現代の言葉で言えば、かなりスピっちゃってる状態で、小山内の中での肉体に対する「内面」の優位性の思想が誕生したのです。

小山内のような影響力を持った演劇人が「心」に注目し、熱心に研究したことで、
その後の日本の演技において「心」の優位性の考えが浸透していきました。
さらにこの時代、すなわちめ明治から大正期は、「心」の解釈をめぐって、大いに議論されていた時代でもありました。
フロイトが日本に入ってきてかなり読まれ、「心」の研究のブームだったと言えます。
「心」のブームと、日本の近代演技の黎明期がちょうど重なっていたのです。

しかし、小山内だけでなく、もう一人、その後の日本の演技の運命を決定づけた人物がいます。それは小山内薫の弟子であった千田是也です。

彼は「近代俳優術」という演技に関する技術書を書きました。
この「近代俳優術」こそ、日本における近代演技のバイブルです。

日本の新劇人は、これを読んだか読まなかったかに関わらず、おそらく一人の例外もなく、この本に書かれてある技術を学びました。

それだけではありません。演劇を学ぶ今の若い人たちだって、かなり多くの人がこの新劇の技術を学んでいるはずです。

あめんぼ赤いなアイウエオも、外郎売りのセリフも、アクセントやイントネーションやプロミネンスやアーティキュレーション、もっと言えば劇団四季の四行ワンブレスだって、
全部この本に書いています。

そしてゴタブンに漏れず、「気持ち」がいかに重要かが書かれているのです。
近代俳優術には、心理的技術と題して、70ページ以上も、あらゆる「気持ち」とその表現方法についての記述があります。

どれほど、演技にとって「気持ち」を表現することが重要視されていたかがわかる。
二回も登場していただいた田代先生が怒るのも無理からぬことです。

こうして日本の演技の運命は決定づけられました。
歪んだままスタートし、同時代の世界の演技からどんどん解離しながら独自の道を歩みました。

そして多くの田代先生と「おそろしい子」を生みながら、基本的には現代に至っています。

もちろん、新劇が他の追随を全く許さなかったわけではありません。
アングラが新劇を批判し、文学から演劇を解放し、役者の肉体や本能に優位性を与える運動もあり、そこから小劇場ブームが始まり、
80年代後半からは「静かな演劇」と呼ばれる演劇も生まれました。

しかし、前述した通り、彼らは新劇と一緒に
「スタニスラフスキー」まで切り捨ててしまいました。

ではなぜ、脱新劇の運動がありながら、スタニスラフスキーが見直されることがなかったのでしょうか。

一番大きな原因は、ソビエト連邦が崩壊していなかったからです、

ソビエト崩壊後、今まで発見されていなかったスタニスラフスキーの著作がどんどん世に出まわるようになりました。

そして今ではアメリカのメソッド演技を学んだ俳優が、スタニスラフスキーシステムを学ぶために、こぞってモスクワに渡っているという現象も起こっています。

韓国では国ぐるみで毎年20人ほどモスクワ芸術座に留学させ、スタニスラフスキーシステムによる現代演技を習得した俳優を育てているようです。

かたや日本ではスタニスラフスキーの「俳優修行(俳優の仕事)」がロシア語から直訳されたのは2008年の夏でした。

そうして、日本の演技においてはスタニスラフスキーは未だに受容されていない現状です。

ここまでつらつらと日本の新劇の間違いについて書いてきたが、私は決して新劇の全てを否定するつもりはありません。

ただ日本の近代演劇は肉じゃがのようなものだったのではないかということを思います。

肉じゃがというのは、東郷平八郎が留学先で食べた、ビーフシチューのおいしさが忘れられず、そのレシピを元に日本で作ったのがその誕生と言われています(実際にはそんなことなかったらしいですけど)。

当時の演劇人たちも欧米で芝居を観た感動が忘れられず、日本に帰って新劇を作りました。
肉じゃがはそれ自体、大変すばらしい料理なのでそれを否定する必要は全くないです。
日本の新劇も、確実に日本演劇の一時代を築いたので、それは否定しなくてもいい。
しかし、人に肉じゃがを差し出しながら
「これがビーフシチューです」と、言ったらそれはちょっと困ったことになります。

本物を知らない人は、機嫌良く肉じゃがを食べながら、「ほう、これがビーフシチューか。」 となります。また、「ビーフシチューなどもう古い!」と言いながら肉じゃがを放り投げたりするのです。

残念ながら、日本の演劇人は、新劇という肉じゃがを民衆に差し出しながら、 「これこそが正当なスタニスラフスキーのリアリズム演劇だ」 と言ってしまいました。
モスクワから帰って来て、スタニスラフスキーの家まで招かれて、興奮冷めやらぬ気持ちはわからないでもないですが、これは明らかに早とちりだったと思います。

良くも悪くも、日本の演劇、特に演技に関しては取り返しのつかないほど大きな影響を残してしまいました。

俳優のリアルな演技が内面だけではなく、
身体と密接な連動から生み出されるものであることに小山内薫の思いが及ばなかったことが日本の演技の明暗をわけました。

もし、このことに小山内が気づき、スタニスラフスキーと演技や演出について突っ込んで話をしていればスタニスラフスキーシステムの受容と理解がもっと違ったものになり、日本の近代劇の歴史は変わっていたと思います。

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