セックスと芝居は似ているのか

演劇界には、誰でも一度は聞いたことがある
「セックスと芝居は似ている」という手垢がつきまくった表現があります。
ようはちゃんと相手役と舞台上でコミュニケーション取りなさいよというだけのことなんですが、これは結局自意識の問題です。

性的神経症を治療するのに「脱反省」という技法があるんですが、「脱反省」というのは、本当に一言で言ったら自分以外の事やモノに没頭して「自分自身を忘れる」ことです。

なんでこの技法が性的神経症に効果を発揮するのかというと、これもまたざっくり言うと、性的神経症タイプの人は常に自分自身にばっかり意識がいっているために、パートナーや性行為から性的に興奮させられるゆとりがないのです。

つまりは、「俺はちゃんと相手を満足させられるだろうか」とか、「俺がうまくできなくてバカにされたらどうしよう」とか、そういう変なプライドとか不安を伴った過剰な自意識があると、結局性的不能になりやすいということなんです。

女性の場合でも、「私は感じにくい」とか、「私は経験が少ないから…」とか、私は、私は、とばかり考えとったら、純粋に楽しむことなんかできないということなんですね。

でも、本来はそういう自意識をなくして、注意を相手に集中させてる時にしか性的な興奮は起こらないんです。

まあ、性的機能なんて不随意な中枢神経に支配されてるもんですから、自意識の統制ではどうにもできないのは当たり前の話ですわな。

だから、「脱反省」の技法によってそういった自意識から解放された時に、はじめて相手に注意を向けることができるし、相手に対して心を開くことが出来るようになるということなんですね。

これは芝居も全く同じなんです。面白いくらいに。一番大事なのは相手を聴くこと。それも「本当に」聴くこと。

「彼にこんな強さで触られたら、これくらいの高さの声を出そう」と考えながらベッドの上にいる人は、いません。いたとしても10中8、9楽しんでいないと考えてよろしかろう。

これは舞台の上でもおんなじで、相手がしゃべっているのを、「ふむふむ」顔の演技をしながら、「俺はこんな表情で、この角度でいたら、観客からどう見えているだろうか」と、過剰な自意識でもって立っている時点で、もう相手役への注意はどこへやらです。

これでは残念ながら役者は「その場に存在していない」のとおんなじです。さらにこれは客席からは一発でバレます。マジで。

本当によく勘違いされるんですが、演技というのは決して自分を見つめる主観から生まれる表現じゃなくて、自分の外側に対する反応なんですね。自分の外側への反応というのは、自分以外の人間や、世界そのものに対する興味です。

本当に相手役に注意を向けるというのが、なかなか難しいですが、「脱反省」は、芝居でも最も重要な技法の一つであることは間違いないと思います。

それともう一点、たまに「俺がどんだけ芝居しても、相手役が全く受けてくれない」と文句を言う役者がいます。これは本当にお門違いです。
「俺がどれだけ頑張っても、ベッドの上の彼女は全然…」なんて言う人がいたらバカだと思いませんか?それと同じです。バカです。

芝居というのは手拍子の音のようなものです。手拍子の音が右手から鳴っているのか左手から鳴っているのかなんてわかりません。ただひとつだけ言えるのは、右手と左手が同じタイミングでぴったりと当たった時にいい音が鳴るのです。

うん。だからセックスと芝居は似てると言われるんです。

まあ、よう知らんけど。


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