006  ゲストDJを海外から呼ぶまで

 これまでパーティをやったことがなかった引きこもりDJこと自分がパーティを仕切ったりしたものですから、最初のうちは何となく盛り上がるのですが、回を重ねるごとにうまくいかなくなり、2008年の3月に始まったAdrenalineも中野のHeavy Sickで何回かやった後に撤退して、やる人たちも変わっていったりした記憶。当時色々とお世話になった皆様ありがとうございました。
 去る人あれば来る人ありみたいな感じで色々なつながりができ始めるのもこの時期でした。 

 2008年に始めて色々動き出すのは2009年。Myspaceにあげていた曲が海外の人たちにひっかかり出したのもこの頃。まだ恥ずかしい名義でハンガリーのTechnoartから出たEP。

  このTechnoartを始めたのはRobert Fabianという青年なのですが、彼、すごくて、2009年当時まだ16歳だったんですよね(チャットで英語の中間テストの悩みを聞いた記憶)。色々やりとりをしているとわかってくるんですけど、クラシックの教育とか受けていたような人で。で、当時まだ16歳とかにも関わらず、色々な国の人に声かけてデジタルリリースとかしていて。Albert Kraner とかDiogo Ramosなどがこのレーベルからリリースをしていました。このレーベル、中々の良作が出ていたと個人的には思っています。
 余談ですが、Robert Fabianは大学に入るあたりでこの手の音楽をやめてしまって、ドラムンベースの方へ行ってしまいました。今何をやっているんだろう。まだ30歳くらいだと思うんだけど。。

 この1st リリースに収録されたPianieっていう曲、REMIXESも出してもらいました。


 で、ここからリリースさせてもらったおかげで色々なつながりができ始めて、当時よくチャットをしていたのがスペインのMechanical Brothersとか。合作もしました。Somebody Said的な。これはリズムをMechanical Brothersが作って私が構成したんだったかな。そんな感じです。 

 後はこの辺から広がりを見せ出して突如コンタクトがあって合作をしたOrman Bitch とか。Orman はJason Littleの実弟なんですけど、色々なところの話を聞くとかなり仲は悪かった(恐らく今も悪い)みたいですね。お兄さんはタトゥにピアスゴリゴリでハードだけど、弟はバイオリンとか学校で学んでいたようで、曲も結構メロディアスで私は正直、弟の音楽の方が好きでした。2009年〜10年ころよく連絡を取っていたけど元気かな。 

 そんなこんなで色々なところからリリースのオファーが来るようになった2009年。全く金にならないんですけどね。リリースが容易になったというのは2007年あたりからデジタルリリースが進んだのもあったのかとは思います。
 で、そんな中、とあるレーベルからお話しをいただいて送ったらボツになった曲がありまして、それに対して全く納得が行かず、ダメ元で当時Killaz Recoreds をやっていたTorsten Kanzlerへ送ったのがTokyo Calling という曲でした。これが通ってKillazのコンピレーションに入ったと。

 割とこの曲がきっかけになって オーストリアの謎DJsからメールがきて広がりを見せ出すこととなります。そして東ドイツコネクションが出来始めるきっかけにもなりました。

つづく

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