おばけの話(前編)
(天乃原智志)
(あらすじ)
〝私〟佐藤響子は弟の浩司とともに、鈴木涼子夫妻の引っ越し準備を手伝いにいく。荷造りや掃除が終わったあとティータイムとなる。鈴木夫妻が子ども時代のことを語り始めるが、なにやら怖そうな話になり・・・
1
リョーコさん──鈴木涼子さんと夫の悟さんが今の家に移り住んだのは、結婚から一年ほど経った時のことである。涼子さんが伯父の浅井某(なにがし)さんから古民家を譲り受けたのだ。
この伯父さんというひとは古武術の師範でで、町はずれに自宅や道場を持っているのだが、ほかにも家屋をいくつか持っていた。その一つを姪であり弟子でもある涼子さんに安く譲ったのだ。
「手入れが大変だから、この先どうしようか考えていたらしいの。」涼子さんは言った。「それで、どうせなら姪夫婦にと思ったのね。あの家、古い造りで味があって好きだから、もらうことにしたのよ。耐震工事にお金がかかったけどね。」
涼子さんは私のいちばんの友だちだったのだが、結婚後は会う機会が少なくなり、私は寂しい思いをしていた。だから、引っ越しの準備を手伝ってほしいと頼まれたとき、喜んで引き受けた。
約束の日に私は弟の浩司を連れて涼子さんたちの住まいに馳せ参じた。本当はもう一人の女の子と来るはずだったが彼女が風邪を引いて熱を出したので、急遽ピンチヒッターとして弟を駆り出したのだ。
実のところ浩司は食べ物に釣られてついてきたのだが ── 涼子さんにスイーツをご馳走してあげると言われて私がウキウキしているのを間近で見ていた ── 彼はよく働いてくれた。それに、悟さんといろいろ話ができて楽しかったようだ。彼が語る科学畑の話がよほど面白かったらしい。
この頃、私にとって鈴木悟氏は大好きな浅井涼子さんを連れて行った仇のような存在だった。きっとメグとジョン・ブルックの結婚が決まったとき、ジョーもこんな気持ちだっただろう*。
一方、我が弟にとっては物知りで話し上手な年上の男性であり、弟は新しい出会いを喜んでいた。
四人で荷造りや掃除に励み、あらかた片付いたのは午後三時ごろだった。
「みなさん、ごくろうさま」
涼子さんがダイニングキッチンのテーブルに紅茶とシュークリームを並べてくれてティー・タイムが始まった。労働のあとに紅茶のいい香りとシュークリームの甘さでほっと一息。至福のひとときだ。
隣の部屋を見ると私たちの手で荷物を詰め込んだ段ボール箱がずらりと並んでいて、それぞれに中に何が入っているか書いてある。そして手前に並んでいる箱には“本”と書かれていた。
「それにしても本がたくさんありますね。」弟が感心して言った。
「半分以上は旦那の本かな。」涼子さんが言った。
あのたくさんの箱の中にはいろんな本が入っている。小中学生向けの文学全集に図鑑。日本文学や海外文学の文庫本(アジア、中東の古典を含む)。辞書に医学書。大人気になったファンタジーのハードカバー。それから医学関係の資料のファイルも何冊かあって、それぞれに背表紙が付けられ医学書の仲間になっている。漫画もいろいろあって、表紙に「完全版」とか「復刻版」とか書かれたものだけでも数十冊。そして、今テーブルの端で朝刊や広告の上にのっかっている小泉八雲と野村胡堂も明後日には箱の中に入るはずだ。
「あれ全部、新しい家に持っていくんですか?」私が訊くと、
「前に思い切って捨てたあとで後悔したことがあってね」悟さんがこたえた。「それ以来、よほどくだらない本以外は捨てないことにしたんだ。」
正直に言うと私はこのとき、この言葉がピンとこなかった。理解できるようになったのは、私自身があちこちに記事を書くようになってからのことだ。
それはさておき、当時すでに電子書籍がいろいろ出回っていて、雑誌でも小説でも〝電子版〟で読むことができるようになっていた。だから私は段ボール箱の山を見ながら、
── 紙の本を思い切って減らしてもいいじゃないか。
そう思ったのだが、口にするのはやめにした。そのくらいのこと二人ともわかっているだろうし、紙の本を持っているのは何か考えるところがあるのだろう。
一方、弟は訊きたいことをすなおに口にした。「お二人はどこで出会ったんですか?」
それを聞いて旦那のほうは目をそらし、奥方は私を見た。私は二人に代わって答えることにした。
「高校時代に出会ったのよ。お二人は高校の先輩と後輩なの。」
すると夫妻がそろって妙な表情を浮かべたので、私は不安になった。
「あの……中学は別々だったけど二人ともN高へ進学したんですよね……何かの委員会で出会ったという話じゃ……違うんですか?」
「ああ、うん、違わないけど」悟さんが言うと、
「N高で初めて会ったわけじゃないわよ。小さい頃はお隣同士だったから。」と涼子さんが言い、
「ひぇっ!」私は変な叫び声をあげてしまった。食べかけのシュークリームを落っことして台無しにしなかったのが幸いというものだ。
悟さんは頬杖をついて何かの想いにひたっていたようだが、
「じゃあ、話してあげようか。」
体を起こして語り始めた。
*『若草物語』の中の話。
2
「ぼくらが住んでいたのは借家でね、一棟(ひとむね)に二世帯が暮らす造りになっていたんだ。」
そう言いながら悟さんは小泉八雲の下から新聞広告を一枚引っ張り出した。そして裏の白い面を上に広げると、そこに地図を描きだした。
「南から北へ、舗装されていない私道が約一〇〇メートル。その中ほどの西側に、今言った一棟二世帯の借家が二棟建っていたんだ。」
「あなた、説明は簡単にしておいたほうがいいわよ。」
涼子さんがいうと悟さんは、
「でも、大事なことじゃないか。あそこは、僕らだけの世界だったんだから。」
涼子さんがちょっと考えて「まあ、そうね。」と言うと、悟さんは私道の南端に東西に走る道路を描き足した。
「この公道から私道へ入ってこの辺りへ来ると、右手が自動車整備工場の裏手になっている。左手には家や車庫。」
説明しながらどんどん描きこんでゆく。
さほど上手ではないが建物を立体的にそれらしく描いているので、わかりやすい。それに、描いている本人が活き活きしているし、いっしょに見ている涼子さんも楽しそうなので、私たち姉弟もついつい見入っていた。
「そこを過ぎると僕らの家があるんだが、この辺りから道の右手、つまり東側が畑になっていてね。急に広くなった感じがするのさ。」
そのあとも、突き当りも畑でその奥に柿の木がたくさんあったとか、家の裏手は斯く斯く然々(かくかくしかじか)と説明がつづき、涼子さんが「ここにはあれがあったわね」と補足したり、「ちがう。ここはこうだったわ」と訂正したりして、最後にはちょっとした絵地図が完成した。
──なるほど。
旦那の言いたかったことがわかった。私道の北の端は畑にぶつかって行き止まりだから、ここへやってくるのは畑仕事に来る人たちと借家の住人、それとその住人を訪ねて来る人たちだけ。そして周りは広々していて自分たちだけの世界がそこにあったのだ。
「僕らが住んでいたのは、二軒のうちのこちら、北の棟。向かって左半分が鈴木家で右半分が涼子たちの浅井家だ。」
「家の前の道は共同の庭みたいなものだったの。そこでよく遊んだのよ。」
それからは二人で思い出話を始めたが、私は絵地図を見て、ふとあることに気がついた。
「周りは畑や叢(くさむら)で、ほかの家まで離れていますが、夜は暗かったですか?」
「ええ、月の出ていない夜は真っ暗だったわね。」涼子さんが言った。「暗闇の中で目が青緑色に光っているのを見て、家の中に逃げ込んだことがあるわ。」
「え?」
私が驚くと悟さんが、
「それ、おれもあるよ。同じ奴をみたのかな。」
え?え!? 同じ奴? 闇の中に光る目って何? ホラーだの怪談だのが大嫌いなんだけど!
私は助けを求めて涼子さんを見たが、笑っているだけで何も言ってくれない。旦那の悟さんはというと、うろたえている私を見てニヤッと笑っている、ように私には見えた。
「ちょ、ちょっとからかわないでください。怪談の季節にはまだ早いですよ。」私は右手で浩司の袖をつかむ。
「別にからかってなんかいないよ。」悟さんはゆっくりと言った。「俺たちが見たのは──」
ここが限界だった。私は弟の肩に顔をあてて両手で耳を塞ぎ声を上げた。
「わーわー、言わないで言わないで! お願い、聞きたくない聞きたくない!」
あとで聞いたところでは、このときの悟さん、何が起きているのかわからなくて呆気に取られていたそうだ。事態を理解したのは私をよく知っている涼子さんと浩司だ。
「響ちゃんは怖い話が苦手なのよ。」
涼子さんは夫に言った。しかし、悟さんには何のことかわからなかった。
一方、浩司は「ねえちゃん、だいじょうぶだよ。」そう言って私の肩を抱き頭をポンポンしてくれたので、私は少し落ち着くことができた。
私が耳から手を離すと悟さんが言った。
「でも響子ちゃん、猫は怖くないぞ。」
「へ?」
「ああ、そういうことか。」悟さんはここで、私が何を怖がっているのか気づいた。「俺たちは猫の目が光っているのを見たんだよ。家の灯りを反射して青緑色に光っていたんだ。黒猫だったから、体が見えず目だけが見えたんだな。」
「あの頃は家の周りを黒猫が歩き回っていたからね。」涼子さんが言った。
「……」私は自分がひどい、お間抜けに思えた。
(つづく)
2024/08/18
『おばけの話』が当初の予定より長くなったため、タイトルから「プチ短編」の語を外しました。
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