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自己紹介

初めまして、安田悟と申します。
文章を書くことは不慣れではありますが、頑張って書いていきますので、よろしくお願いします!
ということでまずはどんな経験をしてきた人なのかをざっくりご紹介させていただきますね。

  • 目次

    • 転校や留学など変化が多かった学生時代

    • まずはやってみないとわからない!転職大航海時代の社会人生活

    • 結婚を機に将来のことを悩み出した30代直前の頃

    • フリーランスから法人設立へ!活動の幅が広がり出した大激変の年

    • 現在では、過去の経験を活かし人材関係の事業で活躍

    • 最後に

転校ばかりで親友作りに苦労した学生時代

『親友を作ること』
父親は気象庁勤めの公務員、母親は専業主婦という家庭の3人兄弟の末っ子長男というとても恵まれた家庭環境に生まれました。
親の仕事の都合で、3〜4年に1回は転勤ということで子供の頃から転校が多く、「親友を作る」ということに苦労していました。
小学生に上がるタイミングで東京都から福井県坂井郡へ。
小学6年生になるタイミングで福井県福井市へ。
中学3年生になるタイミングで新潟県新潟市へと、ちょうど小中最後の学年になる時に転校をしていました。

いつも転校先である程度仲良しの友達を作れはするものの、「親友」と呼べるような仲になっては転校ということを繰り返していたので、学生時代は「幼馴染」とか「なんでも話せる大親友」というものに憧れを抱いていました。

当時、自分の中で「転校生」=「優等生」というイメージが根強くあり、そのイメージを壊さないようにということで必死に勉強していたことが功を奏し、学校の成績も上位の常連でした。

高校は推薦で入れることがほぼ確定していたのですが、普通科に入るよりも、将来のことを考えて手に職をつけたいと思い工業高校に入りました。
高校では初めて入学式から卒業式を1つの学校で経験するということができました。
ただ、高校3年間を工業系の勉強をしていたため、その道に飽きてしまったのです。
途中、中退をして、普通科の高校に編入することも考えましたが、
父親から
「親戚がオーストラリアにいるから会いに行ってみなさい」
と提案してくれたことをきっかけに高校2年お冬休みを活用して単身オーストラリアへ。初めての海外ということもあり、その衝撃はものすごく、広い空、ゆっくり流れる時間、その全てが真新しく、将来は必ず海外で生活する!と決め、高校卒業後は外国語の専門学校を選択、奨学金もいくらか免除になるくらい勉強して無事に入学することができました!

その専門学校のプログラムで、1年目は日本で英語を勉強し、2年目は海外の学校に留学するという内容だったので、オーストラリアにある海洋生物専攻の学校に入学。その学校を卒業した後はワーキングホリデーのビザに切り替え、スクーバダイビングのインストラクターとして勤務を開始。
結果としては約2年半の海外生活をすることができました。

ここまでは自分でも調子が良いなとわかるくらい計画通りに進んだのですが、ビザが切れる関係で日本に帰ってきてから、目標を見失って何をしたらいいのかが分からなくなってしまいました。


仕事が続かない、転職大航海時代の社会人生活

海外で生活をする!という目標を達成した自分は、次に何を目指したら良いのかが分からなくなっていていわゆる「人生が迷子」というやつでした。
人力車の車夫、バリスタ、パティシエなど、どれだけやりがいがある仕事をしても3〜4年で「飽きて」しまっていたのです。
やってみないと分からないということを理由にいろいろな仕事を経験してきたのですが、どの仕事も1〜2年目は真新しく楽しいが、3年目になると途端に飽きだして、4年目ともなるとその仕事が嫌いになりそうになっていました。

しかも、どの仕事に転職しても、「金欠病」は治らず、いつもお金に困っていました。こんなに仕事をコロコロ変えて、自分の人生はどうなっていくんだろう?ずっとお金に困ることが当たり前なのかな?と考えるようになり、たくさんの人に会って話を聞かせていただいたり、相談にのってもらったりしました。
その際に、「人生は旅のようなもの」と教えていただき、「旅行に行くならまずは目標と目的地を決めるところから始め、必要な乗り物を選択する」という当たり前のことを自分の人生では行っていなかったことを気づかせてもらいました。
乗り物だけ変えていても、どこに行くのか分からないから人生が迷子。
結果、自分の人生の目的や目標設定が大事だと考えるようになり、そのために住む場所や仕事も変えました。
『30代で自分で事業をもってみよう!』
そう考えるようになりました。
理由は、
『自分の頑張り次第でどこまでも行ける、せっかく頑張るなら努力の方向性を考え、後に残る努力をした方がお得そうだな。』
ただそれだけが理由でした。

そして、ボクは日系企業から外資企業を経て、知り合いの経営者の方にベンチャー企業の社長を紹介していただき、フリーランスになりました。

フリーランスを目指し、活躍のステージが上がり出した

ベンチャーの企業では、最初は事務関係の仕事をしていましたが、ありがたいことに事務の仕事以外にも様々な部門を兼任させていただきました。営業の仕事に携わったり、経理やカスタマーサービスなどを通じて、主要事業サービスの理解を深めたことで、新規事業開拓部に抜擢していただき、経営企画、イベント企画、新商品のマーケティング、ECサイトの立上げ、プロジェクトの体制構築や、企業を代表しての情報管理責任者となったりと、今までの自分にはやったこともなければ、考えたこともないことばかり。

結果として、どの部署やプロジェクトにも顔を出していることで、ボクは『お悩み相談室のお兄さん』みたいなことが増えてきました。

最近は「コンサルティング」という言葉もだいぶ世の中に浸透してきたと思うのですが、聞きなれなかった頃、ボクが思っていたことは「コンサルティングって結局は何してる人?」ということですが、今、自分がコンサルティングをしている上で説明するとしたら「悩みを聞き、問題解決をサポートする何でも屋さん」のような仕事だと思うのです。

色々経験させていただき、うまくいかないことや至らないことも多いですが、その分日々成長を感じることができて最高に楽しいです!

ただ、まだまだ未熟なことも多いので、もっとレベルアップして、もっとたくさんの方たちのお役に立てるように精進していきます。

現在では、株式会社を設立し、代表取締役として活躍

前章で『お悩み相談室のお兄さん』と書きましたが、ベンチャー企業の中だけではなく、もっと広く影響を与えるステージに上がりたいと考え2021年の5月28日、ボクの母親の誕生日に法人を設立しました!

最初はそれまで続けてきたベンチャー企業でのコンサルティング事業をメインに動き出しました。

法人を作ったことにより、周りにいた「自分で事業を起こしたい」「起業したい」という方や、過去10回以上の転職回数を経て得てきた色々な業界の話を聞きたいという「転職相談」などを受けることが増えました。

そんなとき、友人から言ってもらった「転職相談が仕事にできたらとても良さそうだね」という言葉にハッとして、フリーランスの仕事を探していた時にできた人脈を頼りに、複数の企業様と業務提携をさせていただき、現在は「転職コンサルタント」という人材の事業も始めました。

どのプロジェクトや業界でも、大事なことは一貫して「どれだけ目の前の人のお役に立てるか?」ということだと感じています。
今後は人材の事業を主に、コンサルティングを軸としながら、アパレル事業にも挑戦し、自身のスキルアップや活動の幅を広げていくことを計画しています。

今もかなり働いていると思うけど、これからもっと働くことになりそう。
予定も朝から晩までびっしり。スケジュールが真っ黒になるとはこうゆうことかと感じながら、誰かに指示されて「やらなくてはいけない仕事」だった時は8時間労働でもキツかったが、今は働くこと何よりも楽しい。
体力的には眠い日もあるけど、心が健やかなので、毎日が充実している。

自分の成長と、やってみたい!と思ったことを行動に移し、とことん時間と労力と先行投資をして収入を上げていく。
「自分次第でどこまでもいける」と思うと、これからの未来が本当に楽しみだ。
駆け出しの頃、経営者の方に「自由とは『自らに由る』こと」と教えていただいたことが、今はものすごく確信がある。

最後に

いろいろと書いてきましたが、ボクには特別な才能も、資産家の家に生まれたわけでもありません。
ただ、自負できるのは、困難に向かって挑戦して、努力をし続けてきたということです。

ただ一つ、もし周りより優れていたものがあるとすれば、それは「人に恵まれてきた」ということだと思います。転職や人生の転機には、必ず「人」がきっかけで変化してきました。

なので、ボクはこれからも努力を惜しまず、ご縁がどこでどう繋がるかわからないからこそ、一つ一つのご縁を大事にして日々成長し、たくさんの人のお役に立って収入を上げて、自己実現をし続け、ゲームのような人生を送っていきます。

noteでは日記だったり、日々の気付きなど、ゆる〜く書いていこうと思います。ひとまず定期的に書けるように継続していきます!

これからもよろしくお願いします。


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