見出し画像

X(twitter)現代川柳アンソロ第3号鑑賞 ~二句立て~最小単位の連作~(2)

X(twitter)現代川柳アンソロ 第3号より惹かれた句に感想をつけてみました。

現代川柳は様々な読み筋が成り立ちます。もし、この鑑賞文を読んで、自分ならこの句はこういうふうに読む!というふうな、現代川柳の読みに興味のある方への「たたき台」になったら嬉しいです。ですます調とである調が混じる時がありますがご容赦を。書下ろしで推敲していないため誤字脱字や文脈の矛盾があるかもしれませんが、気付いたら後で直しますのでご容赦を。


ほとの奥 艮の娘は踊れ
ほとで根になる艮 新アトランティス

音羽 @Otohandjoe


・ほと(性愛句縛り)、艮=うしとら=北東=鬼門(方角・陰陽道縛り)

アトランティスをウィキペディアで調べると、「「Ατλαντίς(アトランティス)」という語は、ギリシア神話の神、アトラス(Ἀτλας)の女性形・形容詞形であり、字義通りには「アトラスの娘」を意味する」という引用があり、興味深かった。

イギリスの神学者・哲学者「フランシス・ベーコンは、ユートピア小説『ニュー・アトランティス』(1601年、未完)でアメリカをアトランティスの残骸とする説を寓話として紹介し、広く普及させたが、これには批判もある」という記述もある。二句目の「新アトランティス」は、ベーコン説を採ればアメリカを指し、日本から見れば艮(うしとら)の方角である。アトランティスの女性形から来る字義がアトラスの娘であるという言説を採れば、一句目の「うしとらの娘はおどれ」が該当して二つの句のパラグラフ同士がリンクする読み筋になる。
「根になる艮」の部分だが、艮には留まるという意味も含まれるそうだから、新アトランティスに根を下ろして留まるという意味合いも取れるだろう。

別の読み方をすれば「ほと」は女性の、「根」は男性の性器=繁殖のための臓器とも読める。これら二つの臓器は生命のインプット=受精・射精(射精は男性からみればアウトプットだが、卵子からみると精子に含まれる受精のための情報をインプットする現象としてインプットと理解できる)と、アウトプット(出産)のゲートであり、その結果の生命活動そのものがシン・アトランティスであるという読みもあるかもしれない。
生命はどこからきてどこへ去るのか?その方角は艮(うしとら)なのか?

二句がリンクしあうことによって、単純な性愛表現を超え、原始信仰にも似た根源的ポエジーが醸し出される連作効果を認められる。


左手をずいと進めば白骨化
おもちゃ箱とっかかり無い胸ぐらか

械冬弱虫 @Wimpy_keter

・身体性縛り

骨、胸といった身体に関わる語を結句に据えている。
一句目、左へ行けば白骨化するのだが、まだ進む前で健全な身体があるとも読める。二句目、か?と疑問形で終わっているが、おもちゃ箱=とっかかりのない胸ぐら という、川柳的言い切りの一歩手前の寸止めで終わっている。発想的には言い切る方向での川柳性を感じさせる。この寸止め感が一句目の左へ進む前で発話している寸止め感とリンクしてくる。
左へ行くのか? とっかかり無い胸ぐらでも掴むのか? その決断に関する情報は隠されているため、もやもやとしたズラシが川柳性として効いている。句の向こう側(その先)が読者に丸投げされているのである。


to doと気圧でどうかしてる閏
堂々と種を交わらすカレールウ

片羽雲雀 @anju92091554



・頭韻と脚韻 韻揃え縛り

トゥ・ドゥとドウドウ、してるうるうとカレールウの韻の揃え方が楽しい。韻は技術的に楽しいが、「どうかしてる」という一句目の内容は何か不穏さをかんじる。現在が不穏でないときは無いというほどいろいろあるので、掲句は現在を感じさせる川柳だろう。「種を交わらす」もなにかの象徴表現であって、なにか抑圧された結果えらばれた措辞なのかもしれないことを思うと、やはり不穏である。カレールウは野菜と肉や魚とフルーツなど異質な具材であっても全て包んで交わらせてしまうもの。多様性をすっぽり包み込む存在としてのカレールウであり、そのような状態は発話者の理想・祈りに似たイメージなのかもしれない。


BEMを描く胎内記憶すべて捨て
エーテルのなか立ちつくす売血者

川合大祐 @K16mon


・身体性縛り

一句目の「胎内」は母胎の事なので身体をあらわすだろう。二句目の「血」体の約8%を占める物質である。身体の手や足のようなパーツではないが血ほど身体を感じさせるものも無いかもしれない。そういうわけで、身体性川柳縛りとしてみた。

「BEM」はやっぱり、早く人間になりたい、の妖怪人間ベムなのだろう。
ベムを描くのは作中の主体ということになるが何故ベムを描くのか、その理由は不明である。作中主体は胎内にいた時の記憶「胎内記憶」をもつ存在でもある。人間でもあり妖怪でもあるベムの、妖怪の部分を描き切るために、作中主体は人間として持った原初の記憶である「胎内記憶」を残らず捨てるのである。川柳世界内的リアルが展開されていく。

二句目の「エーテル」は、いろいろな意味があるが、ネットの「アリストテレスによって拡張された四元素説において、天界を構成する第五元素(クインテッセンス、英: quintessence、羅: quinta essentia)とされた。これは中世の錬金術やスコラ学・キリスト教的宇宙観にも受け継がれた」という記述に惹かれる。
作中主体である「売血者」は、天界を構成する第五元素のただよう世界観の真っ只中に立ちつくす。何故売血者なのか?なぜエーテルに立つのか?は謎。

ファンタジーの分野においても「エーテル」は一つのキーワードとして取り扱われているらしい。エーテルの語義としては「複数のフィクションに登場する架空の薬品」となっている。
作中主体が、ファンタジー上の薬品をぶちまけ、エーテルが揮発するただなかに立ちつくす・あるいは、ファイナル・ファンタジーのようなゲーム世界内で、メインキャラがエーテルを浴びて蘇るという読み筋も捨てがたい。

身体に関連するが手や足のような具体的身体パーツではなく、胎内記憶、血といった間接的に身体を感じるキラーワード(一句の中で中心となる密度の高い語)を中心に句が構成された縛りになっているようだ。

掲句から、脳内写生という言葉が浮かぶ。
川合川柳作品の、575の3節すべてで過剰に飛躍した語あるいはパラグラフが結合した構成。その句姿と構成は通常の「実生活で感じた作者の具体的思いを述べる」川柳からかけ離れている。

キラーワードとなる語  (例えば胎内記憶)によって誘発された脳内の無数の言葉や像(イメージ)が、作者によって切り取られてパラグラフとして結合されてゆく。これは従来のモノ派や写生派に対する、言葉派の作句作業であろう。こういった作風の句について、自分の周りではしばしば「頭の中で作った句」「あるいて観察していない句」という感想が聞かれる。

しかし、そもそも句は頭の中の認知機能をつかさどる、シナプス結合によって科学的に変化が起きた結果一句が紡がれるという現実があるだろう。
例えば、胎内記憶というキラーワードを決起として刺激され、脳のシナプスが活動電位の信号を送り伝達物質が放出され、受容体に受け入れられることで次の語が認知され選ばれて結合されるのである。

言葉派の作句の作業とは、脳内の実際の認知に関する自然な化学的工程であり、或る言葉の刺激によって反応し、無数に表れる語群や像(イメージ)から、ある部分(言葉)をフィルターにかけたりトリミングしたりして結合させ、一句としてくみ上げる脳内風景に対する写生作業ではないのか?自然の可視的な植物やモノを写生するだけでなく、脳内の科学的な物質伝達活動の過程から生まれる無数の像(イメージ)や語群をぬきだして句に結合・定着させる作業。

虚子の提唱して続いてきたいわゆる客観写生は「外界の植物やこと・モノを対象とする写生」だとおもうが、脳内の認知活動によることばの定着過程は不可視ではあるが、意識できるものではあろう。意識した上での作句作業も立派な写生ではないのか? 

くり返すが「写生」は、五感で認知・感知できるすべての事象・情報から詠者が、興趣を惹かれた対象をいかに詠者(個体)の個性において、言語に編集・定着させるかという手法・技術だろう。
だから、外界の可視的対象にも、脳内風景の対象にも、同様に使えるという事ではないか? 

だから、これまで、「妄想」「頭の中で作った句」というネガティブな表現はかえってその言葉を使う人の視野を狭めて限定してしまう言動になるのではないか?という気もするのである。

可視的な事物を写生する主義の方はそれで自由に楽しめばよい。だが、脳内風景を写生する興趣を楽しむ句風に対してネガティブな表現・攻撃をおこなうのは、ちょっとちがうのではないか? といいたいのである。

これまで、そのような脳内風景の認知と定着に関する分析を詳細に語ってくれている川柳書や俳句入門書はあっただろうか?

そんな脳内写生論などが浮かんでくるのであった。川合大祐さんの膨大な句群を味わっていると、いつもそんな思いにとらわれるのである。

+++

ということで思いつくままに書いてきましたが、また時間が無くなったのでまたね~~時間があるときに続きを書きます。
お付き合いいただいて有難うございました~~♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?