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『馬場にオムライス』ササキリユウイチさんの句集をよんで

今日20時から、

書店「双子のライオン堂」を会場にして行われる企画&インタビューの高松霞さんとゲストの川柳作家ササキリユウイチさんのトークイベント、短詩どうなってるの第5回。オンラインでも聞けるイベント。自分は会場に行きます。

今回のテーマはササキリユウイチさんの第2句集『飽くなき予報』についてですが、手元には第一句集の『馬場にオムライス』しかないのでした。

デビュー作に作家のすべての要素が凝縮されていたり、作家の特徴が萌芽として見られるとよく言われるので、予習で『馬場にオムライス』を通勤の行きかえりや昼休みに読んでいました。


そして、本日のメインである『飽くなき予報』の作品についてのあれこれは、本番で聞くことに。
『馬場にオムライス』に編まれている惹かれた句、気になった句について印象や感想を簡単にまとめてみました。

ゆらめくものをゆらめきで突く


「ゆらめくもの」という語に、時代の気分の表出を感じます。ゆらめく時代のきぶんをあらわす媒体としては、他に音楽や絵画、小説、詩、映画、お笑いのネタなどいろいろあるでしょう。掲句から、ゆらめく時代の気分はゆらめく媒体でしか本質を突く(表す)ことが出来ない、といった読みが浮かんできました。

ろくすっぽ聞いちゃいないよこの街は


この街は、何を聞いちゃいないのか?という情報は隠されています。作中主体の主張や言い分を聞いていないのか? 街(世の中=日本国全体)に対して現れているありとあらゆる危機的な予兆(警告)があふれかえっているのに、なんにもしようとしないように作中主体は感じているということか? いろいろな読み筋があると思いました。

問い十二 豆電球で呵責せよ


進学や資格取得のためのあらゆる試験。そういった試験の文法? 問いの文体は身近で現実的な実感を伴って読者に入ってきますが、その内容に迫ろうとするととたんに「豆電球で呵責しなさい」という非現実的なものになります。一般的な発想から素直に思いを述べる短詩系表現ではない、常識感覚のズラしが現れています。そこに川柳味を感じます。

孤独って透明な火のことですか


CMのコピー的雰囲気の、口語での問いかけの文体。読者の関心をぐいと掴んでくる鮮やかさがあります。同時に〇〇って〇〇のことですか?という、電車の中づり広告やTVCMで以前みたかも?っていうような既視感を伴う構文を実に巧く利用して、言葉を斡旋している点にも注目させられます。
孤独、透明、火から立ち上がるイメージが実にキレイで完成度が高いなぁと。


鼓膜のかたち 戦場のかたち


鼓膜の働く実感(聞こえている)や戦場(戦争)の影響の不穏さや世の中の経済的影響による実感はあるのですが、それはいったいどんな「かたち」をしているのか?となると途端に、映像化・イメージ化しにくくなります。自分の鼓膜がよく働いてくれているのは聞こえるから実感できるけど、自分の鼓膜がどんな形なのかは捉えにくいです。ウクライナ軍とロシア軍のキーウでの戦場とはいったい何のためでどんな戦いが行われたのか?どんな結果をもたらしたのか?というような戦場と戦闘の本質的な把握というものは抽象的になり、「かたち」としての具体的なイメージ化はできにくいです。並列された鼓膜と戦場というものは全く関連がないながら「かたち」として捉えにくいというイメージ論的本質で括られているようです。そこに柳味があるのかもしれません。

実は枕は違憲だった、と


枕という毎日使う最も身近なモノ。これは実感を得やすいです。一方、憲法と憲法に違反しているか?という検証行為や意識というものは、実は国民として一番基本的に把握していなければならないことではあるのですが、読者の一人である自分などは「違憲」という言葉から来る実感はハテナ?とおもうだけで、ずっと遠いものになってしまいます。身近なモノから遠い実感を考えさせたときのズレ感に川柳味があるのかもしれません。

薄皮にほくろわずかに摩天楼


掲句から直ちに、

摩天楼より新緑がパセリほど/鷹羽狩行

(作者が1969年にニューヨーク出張したときの俳句作品だといわれている)を想起します。
共通項は、摩天楼という大きさ・高さを感じさせる語と、パセリ(摩天楼の眼下の新緑の実景の把握)、薄皮にほくろわずかに(身近で見た盛り上がっている皮膚やもしかしたら、ぽよぽよとほくろ毛がはえている様子の把握)といった、極小の景観や部位との対比でしょう。
鷹羽狩行の俳句の写生による景観のトリミング・センスや機智表現への十全な結晶からくるイメージ(像の結び方)に対して、掲句からはただでさえ繊細な皮膚の薄皮感のほくろによるごくわずかな盛り上がり(極小の隆起による変化)から摩天楼への一気の飛躍表現に、詠嘆や機智よりも人間観察による諧謔や皮肉を感じます。大小の景の比較の仕方にも俳味と柳味の差が出ていて面白いなぁと思ったのでした。

砂丘を破る墓碑銘の痣

   *墓碑銘=エピタフのルビあり。
文体としてはキレがない一物仕立ての句になっていて、実に川柳的なものかと。しかし内容的には、砂丘を墓碑銘が破るというイメージと墓碑銘に痣があるというイメージの取り合わせ、取り合わせによるイメージ同士のぶつかり合い、共鳴しあいなどの要素が読み筋として浮かんできます。イメージが重層的な印象で、ポエジーの立体感、奥行きをも感じさせます。どこかSF的な、キレイな映像をみているかのような印象がきます。

まだ若い岬で埋まる冷蔵庫


実際はきちんと脳内で映像化できないのに、読むと出来る気にさせられる不思議な説得力が迫ってくる取り合わせの構造。作者はポスト・現代川柳のフィルターを通ってきた世代の言葉派としての素養を持っているのかもしれないと思わされます。

おれは恭しく蘇る


短律ですが、実に深い私性の余白を感じさせられます。現在進行形の私性非定型川柳の再構築的な印象が来ます。

カナブンが煉獄編で株をあげ


王道の川柳的文体を感じますが、パッとわからないところ(イメージとして像を結ばないところ)に現在性を感じます。検証していないので、あてずっぽうですが、ダンテの神曲からもってきている?



という調子で数日間読んでいたのですが、まだまだコメントしたい句が沢山あります。『馬場とオムライス』はいろいろな示唆に富んだ構成の句集になっていると感じています。ササキリユウイチさんは、川柳史的流れからいえば、川合大祐さんや暮田真名さんというポストの作家に続いて現れた作家という位置にいるかと。さらに、ササキリユウイチさんの句の方向性にはポスト・ポスト現代川柳への移行・発展を示唆する要素・指向性が萌芽として含まれているのかもしれません。それは、将来の川柳史が明らかにしてくれるでしょう。まだまだ読みこむ必要がありそうです。
時間が迫ってきたのでこの辺で。
以下は、惹かれた句であります。

濁点をもつごく一部の引き波よ
ため息で満ちたピアノを運び込む
吟醸か五〇〇ワットか明示せよ
生粋の他性としての木々が立ち
相談をベッドに生で流し込む
L字と相似の征け上半身
必ずや無職の天使がやってくる
茹ですぎたメモリの影がややしょぼい
打刻だけしてフジツボの上走る
キッチンを片付け肺を裏返す
去り際が水鳥の目に戻れない
明らかになる「ち」の構成が
わびさびの引き出し開けて都市を撃つ
角の傷んだノートが稲妻に着地
こんにちはと言う自然言語のワープアが
消尽は完全無視でよくないか


以上、急いで打ったので、誤字脱字あればすみません。

さあ、会場へ行ってきます。急げ!!

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