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X(twitter)現代川柳アンソロ第3号鑑賞 ~二句立て~最小単位の連作~(4)

X(twitter)現代川柳アンソロ 第3号より惹かれた句に感想をつけてみました。

現代川柳は様々な読み筋が成り立ちます。もし、この鑑賞文を読んで、自分ならばこの句はこういうふうに読む!というふうな、現代川柳の読みに興味のある方への「たたき台」になったら嬉しいです。
ですます調とである調が混じる時がありますがご容赦を。

11
プールから上がる手すりの難しさ
女郎花摘んだ途端に難しさ

小橋稜太 @ryota_kobashi_

・品詞縛り、この場合名詞。

難しさ=形容詞「難しい」が、接尾語「さ」により体言化した形。だそうです。この二句は体言止めになるわけですね。

一句目を読んで昔スキューバダイビングやってたころ、重力を感じない水中で遊んで船に上がる時、酸素ボンベが「異常に重い~~~」ってなったのを思い出した。あと、テレビでシンクロナイズドスイミングのオリンピック選手だった人が、水中で何時間も、一日近く練習するので、プールから上がると歩けないほど体が重くてしんどかった。といっていたのも思い出した。

結語に難しさが来るのは、この重力のズッシリ感を伝える位置として適切なんだなと思った。この句は身体的困難(体感のズレ)の状況を描写しているのだろう。

二句目、女郎花を従来の喩の解釈をなぞると、女性、しかもプロの女性とついに真剣な恋愛関係になった。そのとたんに、いろいろと、その状況ならではの悩みが出てきたというような読み筋を選択するとする。

両句とも難しさの状況縛りなのだが、一句目は身体的難しさ、二句目は心理的な関係の困難(対人関係におけるズレ)をあらわしているようだ。

掲句二句は、同じ品詞の体言止め使用でも、幅広い描写のバリエーションやポエジーのベクトルを変えることができるのだと教えてくれているのではないか?

12
会うたびに「しずかな坂」と言う人と
イオニアの午後にも東1出口

笹川諒 @ryosasa_river


・勾配(傾斜)縛り・短歌縛り

一句目、作中主体は「しずかな坂」と言う人と関係を持っている。「会うたびに」という発話はあるのだが、これから会うのか?もう会っているのか?も隠されている。それから、何をするのか?静かな坂とは場所を指すのか?それとも坂の傾斜の程度をさすのか?傾斜の程度だったとしても具体的に何度くらいなのかについても語られていない。

とにかく結語に置かれた助詞が強力なのである。なにが強力かといえば、「言う人と」の「と」で句がブチ切られるので、その後どうなるの?どうなの?なんなの?という読後の疑問の余韻を強力に感じるのだ。結局、掲句はかなりの度合いで何も言ってくれない(情報がない)のである。

そこで読者は、作中主体と「しずかな坂」と言う人とのストーリーを自ら補って読むことになる。そういう読みを楽しめる読者には楽な勾配な作品で自分の欲するストーリー性を追ってグングン上るように読めるだろう。ストーリーを補って読むのが苦手な読者にはキツイ勾配の一句となる。

冒頭で、勾配(傾斜)縛りと書いたが、ひとつには読みこまれた坂(物理的勾配の度合い・隠喩なのか?などなど)への関心の要素、二つ目には、句自体が読者の嗜好によって読みの難度が変わるという、文芸的な勾配が施された作品だろう。

二句目、「イオニアの午後にも東1出口」はイオニア=地名(場所)、午後にも=時間、東一出口=場所という構成になっている。イオニアは地名だから強烈にその地域の特性の情報を発散する密度のある言葉だ。検索すると、古代のロマン、明るく清澄な光、空気感、鮮やかな海のブルーといったイメージの情報が来て、その印象は普段の自分の生活圏と比べると、まるで労役や毎食食べなければならないことを必要としないような、楽園・ニルヴァーナ(涅槃)の感じが脳内に迫ってくる。それほど、イオニアの地名性は強烈で、俳句でいえば季語並に語としての密度をもっていると感じる。

そしてもう一語、イオニアとは違った意味でより鮮明で限定的な場所性を示す「東1出口」が結語に置かれている。東1出口といえば、地下街、もしくは駅の地下通路から地上への出口の一つというのがまず来る。通勤、通学、買い物、諸々の用足しのための外出という、生活圏での暮らしの背景を色濃くイメージさせる場所性の語が登場するのである。

句の冒頭でイオニアのニルヴァーナ性にほぉ~~っとなったところで、東1出口が急激に現実、生活といった感覚へ引き戻してくるのである。この落差、ズレによって川柳味が引き出されるのではないか?

前述のように掲句は構造的に、場所(イオニア)時間(午後)場所(東1出口)となっている。置かれた位置によって「午後にも」がイオニアにも東1出口にも掛かるようになっていてまるで二つの場所をつなぐブリッジ、あるいは回廊のような働きをしているようだ。その結果、イオニアからいきなり、どこか(例えば、福岡、大阪、名古屋、東京あたりの地下街の)東1出口へと瞬間移動したかのような感覚が来るのであって、それがいわゆる川柳的飛躍とズレの感覚の元になっているのかもしれない。


イオニア「の」の助詞「の」は格助詞で調べると~元来、体言と体言の間に入る助詞である。 つまり、「の」は、前後の二つの名詞 をつなぐという顕示的な機能がある~とある。

掲句の「の」はイオニアと午後という名詞を繋いでいるということになるだろう。

次に午後にもの「にも」であるが、調べると~格助詞「に」に係助詞「も」の付いたもので、場所・時・対象・比較の基準など、格助詞「に」の意味に、添加や許容などの「も」の意味が加わったもの~ということだそうだ。午後という時に東1出口というもう一つの場所を添加しているということになるだろうか。

以上、一句目と二句目を読んできて、一句めの「しずかな坂」がもし「いろは坂」のような、読みに対する歴史的背景や限定した場所情報を豊富に提供する語であったなら、一句目もそれなりに語ってくれる(情報をくれる)句かもしれないが、実際はそうではない。

二句目はイオニア、午後、東1出口と脳内で像を結ぶ力、ストーリーを喚起させる語としてのかなり豊富な情報、密度を含んでいて、一句目と比べると句として相当饒舌だといえるだろう。

勾配・傾斜縛りの読み筋なので、地下街からの出口と言うとエスカレーターと階段が一般的、出口の階段の角度はいくつかネット情報を調べたがなかなか出ないのであきらめた。エスカレーターは長さと角度は決まっているという情報はあったが、その角度が何度かまでは調べきれなかった。

ここから先はさらに妄読に入っていく。
一句目の末尾の格助詞「と」は、調べるといくつか働きがあるなかでも、

1.相手 (例)彼女と結婚する。 
2.いっしょに動作をする人 (例)家族と公園へ行く。
2は「といっしょに」に置き換えることができるが、1はできない。したがって1と2は用法が違う。

とあった。掲句は「と」が一番最後にあるため、1か、2の用法のどちらにあたるかも、情報が隠されているため判断できないじれったさがくる。

すると、末尾の「と」が絡まる先をさがして伸びてさまよっている朝顔の蔓のような意識になって、読後の余韻が結びつく次の語を探し回ってしまう。さて、ふと隣を見ると、「イオニア」である。強烈な読みの磁力をもった単語が間近に在るとおもわず、続けて読んでしまいたくなるのだった。

一句目、会うたびに / 「しずかな坂」と / 言う人と は綺麗な五七五である。二句目、イオニアの / 午後にも東 / 1出口 中七と下五の句跨りだが定型感は安定している。この二句めをどうしても短歌の七七部の破調として読みたくなってくるのだった。

イオニアの午後にも / 東1出口 という9/8の韻律で。
二句を短歌としてつなげて読んだとしても、五つのパラグラフは三番目の「言う人と」から四番目の「イオニアの午後にも」の結合には凄い飛躍がある。だが、二句目全体の構造が、イオニアの午後にも東1出口という三段飛躍をしていながら饒舌なイメージ性があるのだから、自分としては、短歌として繋げて読んでもさほどの違和感は無いのである。

そして、この飛躍の距離感、力業感は、ポスト現代川柳作家の、語の飛躍と結合の手法にしばしばみられるものとも思われる。
そういうことからも、掲句二句を短歌縛りとして繋げて読んで、イメージの飛躍の連続を楽しむのもアリなんじゃないかなと思う。最初の静かな助走としてのほとんど情報を開示しない「しずかな坂」である前半の三つのパラグラフから、後半の二つの破調のパラグラフで一気の飛躍という読みの急坂を登りきる。楽しいじゃぁないかぁ~~!!

笹川さんは本業が歌人なので、あの一句目末尾の「と」の技巧によって、短歌の読み筋にすっかり誘導されてしまったのかもしれない。

+++

というわけで、つい自分の妄読癖を作者のせいにしてしまった(汗。
そして、また時間がなくなってしまった。全然進まないなぁ。
つづきはまた時間があるときに書きます。
誤字脱字、読みの上で論理的矛盾があったばあいはご容赦を。
あとで修正します。

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