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X(twitter)現代川柳アンソロ第3号鑑賞 ~二句立て~最小単位の連作~(5)

X(twitter)現代川柳アンソロ第3号より惹かれた句に感想をつけてみました。現代川柳は様々な読み筋が成り立ちます。もし、この鑑賞文を読んで、自分ならこの句はこういうふうに読む!というふうな、現代川柳の読みに興味のある方への「たたき台」になったら嬉しいです。

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インテリと踊れわたしのハンチョーカ
わたしから取った部品でつくった子

下野みかも @3kamoshitano

・品詞(一人称の人称代名詞しばり)
・主格表記しばり
・身体性しばり

掲句2句は、上記三つの要素のしばりによる連作に読める。

第一印象:

カワイイ。
とくに「わたし」と他の語のつなげ方からくる句全体の印象がカワイイ。
ただ平板にカワイイのではなく、どこかにサブカルっぽい、醒めカワイイ的なスパイスが入っているカワイイ。二句からそんな印象を受けた。

疑問:

そのカワイイはどこからやってきたのだろうか? まず二句とも「わたし」という人称代名詞が置かれている。このことは、自分が句を詠む(読む)場合でも、人称代名詞をどう取り扱うのか? 一句中の主格にあたる具体的単語を使って(あるいは使わないで)どのように作品として構成するか?
という問題を考えさせてくれる良い機会になった。

課題:

通常17音しかない詩形では人称代名詞(一句中の主格でもある)を省略して、詠み手本人のこととして読む、詠むというのが、暗黙の了解として常套的に使われたり、通用したりする場合がままある。
一人称代名詞に関しては、わたし=作者自身の事として読まれる可能性が高いし、実際に「わたし=作者」という私性を前面に出した句もあるだろう。架空の「わたし」か、作者本人の私性を伴った「わたし」かで、句の読み筋が違ってくるのは当然だろう。
ここで、川柳における私性という、とんでもなくヘヴィーなテーマにも触れなくてはならなくなったようだ。

一句目「ハンチョーカ」は脚で履くものと言う意味で、間接的に身体の部分(脚)をあらわしているだろう。二句目「部品」はどの部分かは不明だが、身体の一部であることは確かだろう。そういう意味でやはり間接的な身体表現といえるのではないか? 直接的身体表現と間接的なソレの違いなど、述べることはあるのだけれど、論が広がりすぎてとっ散らかってしまい、上手くまとめる自分の実力が追い付かないので身体性川柳に関する感想は、今回割愛する。

それでも、長文になってしまう予感が大だ。そこで、いくつかあらかじめ要点を絞っておく必要があるかも。。。

1.論点: 
掲句中の「わたし」=一人称代名詞の使用から来る、ポスト現代川柳の世代の作家としての、作者の興趣の反映(時代の気分の反映)をうきぼりにする。

2.サブ論点: 
ーそれを明らかにするためには、たとえば他作家のゼロ年代の作品サンプルのバリエーションをみてみる。それと掲句を比べてみるのはどうか?

ーポスト現代川柳のフィルターを潜った  (洗礼を浴びた)  世代の作家の使う「わたし」と、ポスト現代川柳以前の作家の「わたし」あるいは一人称代名詞の興趣に違いはあるか?

3.課題と作業: 
実際のサンプルを抽出 金山英子時実新子石部明の作品を鑑賞。
それと下野句を比較してみる。

4.結論: 
あらためて、掲句に立ち返って結論付ける

とりあえず(行き当たりばったり、汗)上記のような手順でいってみようか?

まず、二句とも「わたし」という一人称代名詞が置かれている。このことは、自分が句を詠む(読む)場合でも、人称代名詞をどう取り扱うのか? 主格にあたる品詞を一句中で省略せずに(あるいは省略して)、どう作品として構成するか?という問題を考えさせてくれる良い機会になった。

通常17音しかない詩形では人称代名詞(一句中の主格にもなる)を省略して、詠み手本人のこととして読む、詠むというのが、暗黙の了解として常套的に使われたり、通用したりする場合がままある。
一人称代名詞に関しては、わたし=作者自身の事として読まれる確率も高いかもしれない。

暗黙の了解というものが、はたして本当に「常識」として鵜呑みにしてよいのか?という問題意識に突き当たる。

具体的作例ヒントを探して

『現代川柳の精鋭たち』北宋社 西暦二千年度版 アンソロジーを開いてみた。それこそ「精鋭作家」の作品が各百句ずつ編まれている。ゼロ年代で既にアンソロジーに選ばれる作家の作品であるならば、推測すれば1980~1999年ごろに詠まれた作品がメインになるのではないだろうか?ゼロ年発行のアンソロジーの掲載作品は、当然年代を遡った時代ごとの私性が詠まれた、断層のようなものだろう。

このゼロ年発行のアンソロジーの中で、個人的な印象として一人称代名詞が使用されており、自分のこととして自分の思いを濃厚に前面に押し出した句群を掲載していると受け取れたのが

金山英子(かなやまえいこ)

の作品。この私性全面押し出しスタイルが評価されていて、平成八年(1996)に、この年代では最高峰ともいえる「かもしかZ賞」をとっているようだ。p57-67。

先ず、序に「四十女の肉身(み)の根底に流れる水と血が織りなす色模様。祖母、母、娘、四人姉妹の次女として、女系に彩られた幻が月に輝き日に哭き、亡父(ちち)よ水子(こ)よと揺れ動く性の只中で阪神淡路大震災に遭遇。再びの生を得てここに、私の最とする四十代の生きざまを世に「自愛」と名させて頂きました」とある。

亡父は真水我は水なる極の縁
忘恩や我に子があり水の刑
寒月や我も情けの子を吐かん
子をかばう我にやすやす十指あり
こんな小さな私になって小石になって
吾が景の木椀土椀砕くべし
亡父も吾も冥き生持て乱月やさし
かげろうはやさしく病んでわたくし忌
流灯や吾が昔日の時計(とき) ふぶく

※9句目、句中の「吾が」は、現代語では「吾が・我が」で連体詞として扱うらしいけど、古文では、吾・我=わ(人称代名詞)+が(格助詞)の二語として扱うらしい。掲句の場合「や」という古語ともいえる切れ字使用があるため、それに統一して吾=人称代名詞としてもいいかもしれない。いずれにしても、自分のことを主格として述べるという方向性は一緒かと思われる。

などなどがみられる。

一句中にわざわざ一人称を入れると、なるほど情念、恩讐、理不尽、不条理に立った強烈・濃淳な私性を詠むことができるのか?とおもわされる。これは従来の一句中の一人称代名詞を入れないという暗黙の了解をあえて破ることで逆に自分の表現にとって最適なアピール性を作り上げたケースとして読めるかもしれない。

次に時実新子の作品から

わが胸で伐採音の絶え間なし

心中に抱き続けた、女性である以前に一個の人間・人格としての自立や独立への希望や夢や志。それらが立ちはだかる不条理によって切り倒され続ける。わが胸に伐採音が響き続ける苦痛。情念・無念の炎が立ち昇る句と言う点で私性が濃厚だ。

私の男むかしの服は着せませぬ

わたしのおとこ/むかしのふくは/きせませぬ
で775の韻律で読みたい。「おとこ」を「わたし」が独占しようとする強烈な意思が、結語の打消しの終助詞「ぬ」の言い放ちによってさらに強調されオーバードライブしてくる。ここでのover driveは、ギターなどで多用される歪系のエフェクターの効果的なニュアンスである。入力された信号波形の上下を切り取ったりして、音を歪ませる。句の調べがピンポイントの狭いレンジにカットされた私性によって歪んで響いてくるニュアンス。
また、独占欲のボリューム感を上五を上七にすることで強調しているようにも取れる。情念を伴った私小説的ストーリー性が際立つ句。

わたくしは遊女よ昼の灯を点し

「遊女」というイメージ喚起力のある濃密な一語(キラーワード または キーワード)によって、境涯という私小説的私性が濃厚に立ち上がる。不条理と諦念、怨念、情念などいろいろなストーリーの読み筋が成り立つだろう。

以上、三句をみただけでも、金山句同様、一人称代名詞の使用によって、私性を増幅・強調することに巧く使われているようだ。

ただ、時実新子の使う「わたし」は作者本人=主格というよりも、「わたし」という架空のキャラクターとしての主格=作中主体として、非常に技巧的に使われているという印象を受ける。その点、金山句のほうが、作者自身のリアリティーとして伝わり、素朴で切実な私性が来る印象を受けるのである。この点において、両者の私性のポエジーにハッキリ違いが出ていると言えるだろう。
話がもどるが、時実新子の完成させた世界は、単に「わたし」=作者の素の私性・私小説性として「思い」をのべ、最大公約数的共感を呼ぶことを是とした、当時の月並みな私性川柳を完全に突き破った、文芸的私性の最高峰ともいえる表現。だが、時実新子の作品が完成した表現領域はもう乗り越えられないものなのか?というところで、別のムーヴメントを起こす存在もあったということだろう。その存在が、石部明であり石田柊馬があげられるのではないか?

次に

石部明(いしべあきら)

の百句を見てみる。
p21-31。

妹、姉、妻、父、といった普通名詞で肉身(私性に密接な素材)をさす語はしばしばでてくるが、一人称代名詞の句は、

わたくしの巨きなてのひら浮く運河

一句のみであった。
わたくし、巨きな(おおきな)、てのひら、浮く、運河など日常生活でよく使うことばで日常っぽさに読者を引き込んでおきながら、実際に組みあげられた句を読むと、非日常的・非現実的な世界が待っているという構成。
野球のピッチングで、ストライクゾーンにくると思わせて、ホームベース近くのギリギリで変化してボールに外れていく球のようだ。読者は思わず空振りしてしまうのである。

ここで使われる「わたくし」という一人称代名詞は、運河に浮き沈みする巨大な手のひらの像と連動することで、或る意味「モノ化」されていて、世間一般の私性によって立つ情念や想いといったポエジーを徹底的に拒絶しているような読後感がくる。

ここからはさらに自分の推測にたった、妄読の領域にはいる。
現代川柳の前半期、河野春三を起点として時実新子へ引き継がれた、私の気分=時代の気分(興趣)を詠むことが新しい川柳・本当の川柳だというムーヴメントが大勢を占め、その影響力は強大だった。
石部明は、それ以外の表現領域でも現代川柳は立派に文芸として成り立つことを立証しようとして動いてきたという一面があるだろう。私小説的詩川柳の超克という使命を帯びたムーヴメントの牽引者であったと考えられる。そういった川柳史的流れから掲句を読むと、私小説的私性が徹底して排除されている事にも納得がいくのである。

また私性が本来濃厚なはずの、肉親を詠み込んだ句においても、その肉親へのストレートな「愛憎」やその他、一般的に抱かれる関係性由来の「想い」と比較して、読後感が奇妙にブレて来るものが多い。例えば、

いもうとは水になるため化粧する


妹への一般的な親愛の情などのポエジーは句作の過程のなかで、何度も濾過され、精製されて、最終的に血族との関係におけるありふれた思いは大幅に変形されてアウトプットされる。このあたりは意図された操作だろう。

そして、話がそれるが、わたし=主格がハッキリしない句もある。

オルガンとすすきになって殴りあう

どっちがわたし=主格?どっちも、わたし=主格? みたいな。自分としては、この混乱に常識感覚のずり落しとか、情報隠しの面白さを見る向きもある。これは、金山英子の句には見られない傾向だと思われた。

ここでいったん、妄読コーナーを中止する。

さて、長くなってしまったがいよいよ下野句を見てみる。

インテリと踊れわたしのハンチョーカ


インテリがどんな存在で「わたし」とどんな関係なのかは伏されている。
わずかにインテリと踊らなければならないという設定は開示されている。わたしのハンチョーカ=半長靴のパラグラフを、ハンチョーカを履いているわたしであると解釈する。

私のハンチョーカ=わたし自身。これは換喩(メトミニー)の技法に該当すると思われる。
メトミニー → 「近い」ことを利用する喩の技法。
例:
1.「鍋を食べる」と言っても、鍋そのものを食べるわけでなく、「鍋」という容器で、鍋の中の具材や鍋料理全体を指しています。
2.「主体と従属物」の換喩は、「赤ずきん」のように、ある人がいつも身に着けている〈モノ〉で指す比喩です。

掲句の場合、主体「わたし」が履いているハンチョーカが〈モノ〉に該当するわけだろう。その読み筋でいけば「わたし」がインテリと踊る設定であり、しかも命令形で自分を鼓舞するような状況下である、という所までは読める。モノを喩とした間接的な描写の影響なのか、私性としては何処か醒めた、自分を観察しているような、第三の目で見ているような読後感が来る。

半長靴(はんちょうか)を調べると、「くるぶしと膝の中間あたりまでの長さのブーツである。工事現場や工場内作業者用の安全靴やワークブーツ、その他の作業靴、軍用のものがある。靴紐による編み上げやマジックテープ、ジッパー(ファスナー)、ベルトを利用するものもあれば、ゴム長靴のようなスタイルのものもある。素材は主に皮革、合成皮革、ゴム、布であり、軍用のブーツでコンバットブーツと呼ばれるものは、たいてい半長靴である。」とある。

読者は「ハンチョーカ」を履く「わたし」が上記のいろいろな職業をもつ主格である可能性を鑑み、自分の好みで読み筋をたてることになる。

例えば、最新型の戦車を操縦する戦闘員が履いているハンチョーカであったり、高級ブランドのブティックで新作のミリタリーをテーマにアレンジされた、街履き用のお洒落なハンチョーカを身に着けた店員という読み筋とか。色々可能である。

もしこれが漢字の半長靴だと、漢字は表意文字なので意味性が視覚から素早く入りすぎて、単語としての密度を持ちすぎる印象になりがち。掲句はそれを防ぎ軽やかさを出すためにハンチョーカとしているようだ。

ここに「わたしの」が接続されるのである。ハンチョーカとくっついた「わたし」は同様に軽快なニュアンスを帯びることになる。
ハンチョーカは勿論、冒頭の謎性が高い(意味性をさして持たない)インテリの片仮名とも呼応することになり、いよいよ、情念や想いなどの濃い私性とは違ったベクトルの詩情を醸すもとになっている。

想いを前面に出しパワー全開の金山句や時実新子の高度にドラマ化されたコンテクストの中で演出された「わたし」とは、またポエジーのベクトルや性質がちがった「わたし」の読後感が浮き彫りになってくるのだ。

わたしから取った部品でつくった子

掲句で一番気になる語彙は「部品」である。部品はわたしから取った「スピリッツ・精神性」の一部という読み筋もある。だが、まず最初に来るのは身体の一部分というのがやはり優先的な印象だろう。この部品という語彙を選んでいる興趣(時代の気分)というものが気になってくる。

ゼロ年代以前(ポスト現代川柳より前)の作家である、金山英子の身体性川柳であれば、肉や骨や血や血肉をわけた子というような表現で身体の部分をより直接的に表現する傾向が見られた。

母の骨ひろうて帰る鐘が鳴る(p61)
水子(こ)に形見(のこす)みずかげろうと殉死せり(p62)
水売りと終日淡い(うすい)血を競う(p64)

※括弧内はルビに相当。

ところが、掲句の「部品」のニュアンスは肉や骨や血ではなくて、どこか「モノ」的な身体の一部として提出される。ゼロ年代以前から活躍している作家の、私性を前面に出した叫び的な描写ではない。ポロリとカラダからでてくる、ガチャのカプセルの「フィギュア」的な、どこか心理的に距離を置いて取り出された私性=身体性となっている。醒めカワイイ感覚がここにも表出していると言えるかもしれない。

この、身体をどこかモノ的に距離を置いて、俯瞰的に見る作風は、ゼロ年代以前の作家で見れば、石部明のわたくしの巨きなてのひら浮く運河の感覚の延長線上にある。というのが一番読後感として近そうだ。

さて、ここでまた、妄読モードに入らせてもらおう。

(以下、敬称略) 現代川柳の革新の起点となった作家、石部明とともに、月並み的川柳の革新を推進したのが、石田柊馬(いしだとうま)であり、その周りに、樋口由紀子小池正博、清水かおり、浪越靖政、加藤久子、畑美樹、兵頭全郎、なかはられいこ、時実新子の直弟子でありながら別の詩性のベクトルをもった八上桐子、広瀬ちえみ、松永千秋、飯島章友、湊圭伍、いなだ豆の助らの作家群が取り巻いており、河野春三 ー 時実新子ラインの完成させた私性川柳の超克を推進したとみることができるだろう。
ちなみに、時実新子の直系、またはその系列に連なる作家では、いまXに様々な箴言や自作川柳句を伝えてくれている徳道かづみ、ラジオと結社誌で活躍する茉莉亜まり、川柳句集『甘藍の芽』(港の人)を最近上梓した城水めぐみ、『半人前のマリモを上梓した伊藤聖子(さとこ)らがいてXでも作品をみることができる

そして、川柳スパイラルを創刊してこのムーヴメントを現在も推進している小池正博を中心とした、

ポスト現代川柳作家に、川合大祐、暮田真名がいる。

川合大祐は、インターネット時代の情報の氾濫、言葉をはじめ様々な事象の過剰文化を反映した現在形(いま)の川柳表現形式に沿った技術(冨二的にいうなら、発想における技術)を実践しようとしている。
それは、既成の言葉や想いを一度破戒・分解し、今に生きる世代の誠の言葉としての再構築を試みているように受け取れる。 

また、自分が誰(何者)でもなくてよいという立ち位置から詠むスタイルから始めた暮田真名。何者=母、女、妻、社会的に確立された常識的存在などなど。それら「誰」から一切距離を置いた、関係性を絶った立場で詠まれる川柳を提唱した。これはいままでになかった、エポックメイキングな視点の川柳的アティテュードであり、一般的な認知をもとめる「誰」の裏に貼りついた私性とは、距離を置いた作風であるのは当然であろう。
最近は、収入を得たり川柳講座を持ったりしているという点で、「誰でもない」から、プロ川柳作家の肩書をまといつつあり「誰」という存在になりつつある暮田真名がどのような川柳性へ進むのか?
今後の作品の変遷が注目される点でもある。

彼らのフォロワーとしてSNSや句集の読者、あるいは両者の川柳講座の受講生といったフィルターを経た流れのなかで、続々と登場した詠み手たちが大きなウェーヴを作り出そうとしている。自然に無意識に(または意識的に)彼らは、大なり小なり、ポスト現代川柳作家の作品や作句に対する姿勢(アティテュード)の洗礼を浴びて影響を受けているだろう。

下野みかもはこうした川柳史的コンテクストの中で登場して来た川柳作家なのである。

そして、ネットや紙媒体を通し、月波与生西沢葉火、千春、成瀬悠、まつりぺきん、ササキリユウイチ&B面ズ、西脇祥貴、太代祐一、小沢史、今田健太郎、他様々な無所属作家として、蔭一郎、片羽雲雀、汐田大輝、森砂季、丸山修平、笛地静恵などなど(他、書き切れなかった作家さんたちごめんなさい)が並走してムーヴメントを推進しているという状況が見られるのである。

結論

上記の、妄読的感想の結果、インテリと呼応した「わたしのハンチョーカ」のフレームワーク構成や「わたし」=一人称代名詞の使用感覚。
身体の一部を「部品」と呼称する、ガチャのフィギュアを思わせる醒めカワイイ私性の表現感覚は、ポスト現代川柳の現在進行形としての川柳的興趣(時代の気分・私のきぶん)一断層的露出を典型的に呈している作品と言えるのではないか。

川柳の現在(いま)はますます面白さを増している!!
以上、つたない感想に最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

+++

とういうことで、まだ全然前に進まない。
7連勤の低浮上のあとで、ちょっと書きちょっと書き足しというペースでまた連勤で低浮上。もどかしい限りだ。今回もひとりの作家についてだけしか書けなかったww あと、ほんらいなら、みかもさんの作品のみに集中して感想を書くのがマナーなんだけれども、いろいろな作家作品の挿入や妄想読みの部分を大幅に挿入してしまい、みかもさんには失礼なことになっていることを、申し訳なくおもっています。ごめんなさい。許してください。

また、時間が出来ましたら、感想を書き進めたいと思います。でも、うかうかしていると川柳EXPO2024が出てしまうなぁ。。。


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