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ル・コルビュジエ建築探訪 前編

 ながく夢想してきた建築は、いま私の目の前にある。実に不思議な、奇想天外な形をしている。コンクリートの白い外壁は曲線を描いて、一方は上にせり上がる。黒い屋根は上へ跳ね上がり、屋根が描く線は白い外壁が目指す頂点へと収斂される。
 せり上がりを正面にすると、独特なキノコのような形をしている。青空の下のフォルムの強烈さ。その絶妙なる形態とヴォリューム。いちめんの芝の上に立つ白い形態は、青と緑の中間で、比類なき個性を発する。
 ロンシャン礼拝堂。フランスの片田舎にあるこの礼拝堂は、近代建築の聖地と言われている。築いた人物は誰あろう、ル・コルビュジエである。2016年6月28日。夢想してきた建築を前にして、私は文字通り身体が震えていた。
 一ヶ月に及んだ16年の旅において、コルビュジエの建築を巡ることも重要なテーマの一つだった。ユーロ観戦の合間を縫って、フランス中に点在するそれら建築を巡る。ロンシャン礼拝堂もその一つである。その旅で行けなかったところも、19年の旅で果たした。19年の方はメインテーマが美術・建築だったので、この二回でフランスにある彼の主要な作品の多くを見て回ることができた。
 それにしても、ここまで私を衝き動かしてきたものは何なのか。私は建築学科出身ではないし、現在の仕事に必要なために見て回った訳でもない。建築の図面など正直なところ、その見方さえ判らない。完全な門外漢である。そんな人間をも衝き動かすコルビュジエの作品には何があるのか。私はその出会いから振り返ってみた。
 
 
 思えばコルビュジエとの邂逅は、08年秋まで遡る。それはまったく思いがけない形でやってきた。私はふと、美術展のチラシを目にする。そこには「ル・コルビュジエー光の遺産」と銘打たれていた。私が興味を覚えたのはその言葉ではない。チラシに大きく映っている、見たことのない造形の建築の写真に、一瞬にして心を奪われたのである。
 それは建築なのか何なのか。私が直ちに感じ取ったのは、ただの奇抜ではない何かがそこにあるということだった。その写真こそ、ロンシャン礼拝堂だった。
 当時の私はコルビュジエという名前すら知らなかった。建築に携わっている人にとってはアイコンのような存在だが、興味のない人はその名前を耳にしても通り過ぎて行くだけだろう。ただ私の場合は、当時から美術展にはしばしば足を運んでいた。要するに建築ではなく美術のアプローチから、コルビュジエに触れることができたのである。
 青空の下に映えるその写真は、兎にも角にも私を衝き動かした。御代田にあったメルシャン美術館で開催されていた展示空間は、後のどのコルビュジエ展よりもコルビュジエの粋が現れていたように思う。決して大掛かりとは言えないその空間には、あらゆる造形に当たる光や、その中で感じる光といった、普段は意識的に感知しない光というものの捉え方を提示しているようにも見えた。
 そこには彼の絵画作品もあった。それだけでは変な絵だなという印象で終わりかねないその絵も、展示空間と渾然一体となって、あるイメージを私にもたらした。モダニズムやピロティや住むための機械といったコルビュジエを形作る概念は、それから後に知ることになる。最初に概念ではなくイメージから入ったのは大きかった。いかなる言葉も挟まずに、作品の中にある粋のようなものを、私なりに感得できたということが。
 建築家ル・コルビュジエは、日本には早い段階から入って来ていた。1922年秋、パリのサロン・ドートンヌでのコルビュジエのプレゼンテーションを、二人の日本の建築家が目撃している。翌23年8月号の「建築世界」の「欧米を巡りて」という記事で、初めて日本に持ち込まれることになる。面白いのは、建築作品ではなくプレゼンテーションを見てということである。この時点でコルビュジエは、フランスにおいても世間に認知された作品を持たぬ駆け出しの段階にあった。
 世間を引きつけるためにコルビュジエは雄弁に語って行く。そして作品でそれを実証してみせる。この一連の言動に日本の建築界は熱視線を送っていた。本国のパリにおいてさえまだあまり認知されない駆け出しの建築家は、日本の建築界で、うねりのような高まりを見せて行った。
 
 
 大きなきっかけを得た私は、コルビュジエの著書や、関連の本を漁って行く。コルビュジエ自身の著書では、「エスプリ・ヌーヴォー」や「建築をめざして」など、当時の彼の鼻息のようなものが感じられ、その内容は示唆に富んでいて面白い。建築家として世に出る前の若き日の旅の体験を綴った「東方への旅」では、その瑞々しい感覚が迸っていて読み物としても面白い。
 関連の本で一つ挙げるなら、富永讓氏の「ル・コルビュジエ・建築の詩」である。コルビュジエの建築というのは一言で言えば人間の感覚を呼び起こすものであり、そのメソッドを作品の一つひとつから解き明かしている。読み進めて行くうちに作品への想いを膨らまし、作品が持つ詩情に思いを致すことができた。
 また、建築家などの講演を聴きに行ったりもした。最も興味深かったのは、建築史家の長谷川堯氏の講演だった。俳優の長谷川博己氏のお父上でもある。「20世紀建築を貫く四つの潮流」と題して、12年暮れから13年春にかけて、5回に亘って目黒区美術館でそれは開催された。ガウディをチュービスム、コルビュジエがキュビスム、タウトのクリスタリスムに、アーツ&クラフツ運動をヴァナキュラリスムと名付け、それら四つの潮流が現在も連綿として続いているという、着眼点の素晴らしさに思わず聴き入ってしまう内容だった。
 モダニズムは建築の最終形態などでは決してなく、その一部に過ぎないと唱える長谷川氏の講話は、コルビュジエ批判のようにも聞こえる。しかし氏が批判しているのは、コルビスムとでも言うべきもので、コルビュジエ本人、少なくともその作品ではない。コルビュジエは耳目を引くために一面を表層にまとったが、その作品はキュビスムの枠には収まり切らない。
 1930年前後の日本の建築界においては、コルビュジエ礼賛の風潮は凄まじいものがあったと当時を知る人は語る。フランス発の、大いなる流行が発せられた。しかし一方で、建築以外の言論界において、批判的な意見も散見されていた。
 コルビュジエ自身に原因はあるものの、「住むための機械」や「近代建築五原則」といった彼の言説は、その言葉から受ける印象が独り歩きして、この建築家をモダニズムや近代合理主義の代名詞としてしまった感は否めない。コルビュジエは新しい時代精神を示すためにこうした言葉を身にまとい、実際に作品として表して行ったが、我々がその作品から受ける感動は、そうした一面からだけでは説明できない。
 ー大切なのは、触知可能な身の回りのもの、肌理感覚である。
 コルビュジエはこうも言っている。それに触れ、その空間を動くことで、普段は意識しない感覚は、肉奥から呼び起こされる。
 私はフランスでコルビュジエの作品を巡った。その旅はまず、白の時代と言われるパリから始めることにする。

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