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使徒言行録17章10節ー15節       

地中海世界一帯を伝道に駆け巡ったパウロ。彼がテサロニケの町をあとにせざるを得なかった経緯が物語られるのです。もっとも彼自ら退去を望んだわけではありませんでした。教会を迫害するユダヤ人の暴徒からパウロを守ろうとして、生まれたばかりのテサロニケ教会の兄弟姉妹がパウロを逃がしたのです。夜の闇に乗じるようにして、人目を避けて密かにパウロを手引きしたことからも緊迫感が伝わってくるようではありませんか。

ところで、生まれたばかりの教会がなぜ牧師と別れる決断までできたのでしょうか。今後、自分たちはどうなるのかという心配はなかったのでしょうか。鍵はこの町でパウロが伝えた説教の中身にあります。キリストの十字架と復活。苦難を通り今も生きて働かれる主がテサロニケ教会の主です。私たちも同じ福音に預かっています。この方さえ伴われるなら大丈夫です。この方さえおられるなら、どんな困難にもどんな寂しさにも耐えてみせましょう。

一方、パウロも単に逃げ回っていたわけではありません。落ち着き先のべレアの町で早速福音を語り始めます。その結果、ユダヤ人の中に主を信じる者が起こります。彼らの特徴は聖書をよく調べることにありました。み言葉を聞いただけで終わらない。感情的に高揚しただけで済ませない。家に帰っても日々、語られた内容が本当かどうかみ言葉を紐解き、確かめ吟味する姿勢がありました。こういう信仰者は成長し、こういう教会は強められるでしょう。

それだけではありません。その熱意につられるようにしてユダヤ人ではない異邦人までもが福音を受け入れ出したと言うのです。聖書を学ぶ姿が魅力的だからです。その姿勢が契機になり、惹かれていく方は必ず与えられるはずです。聖書はすべての人に対して開かれた神の言葉。特定の誰かだけがその恩恵に浴するということではないのです。み言葉を学ぼうととりくむところにその影響は思いもよらないことを引き起こし始めます。

ところでべレアの町での伝道は順調だったかと言うとそれは違います。テサロニケの町でパウロを妨害したユダヤ人が距離もあるこの町にまで乗り込んできたからです。それにしても聖書を真剣に学ぼうとする者と妨害しようとする者の落差に驚かされます。どちらも同じユダヤ人なのです。二つの反応に共通点もあるでしょう。何かに対して熱心だと言う点です。熱心さはよいわざをも生みますし、悪しきわざを生む場合もあるわけです。

私たちにしてもおそらく何かに対しては熱心です。熱心であることは難しくはないのです。熱心におそれる人もいる。熱心に怒る人もいる。熱心に不安を呼び込む人もいる。しかし、復活の主が与えるものは喜びであり感謝であり、平安です。これらのよきものに支えられるなら、自分の力を振り回す必要はいりません。どんな苦難にも耐え、どんな結果も主におゆだねし、何が起ころうと立ち上がり、どんな状況からでも福音が証されるのです。

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