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使徒言行録20章7節ー12節

「私たちを生かすもの」
今でこそ日曜日は多くの方にとって休日です。週日の疲れを引きずりながら、それでも礼拝に通えるのは休日だからという点も大きいでしょう。しかし、パウロの時代はまったく違いました。礼拝の日は平日に行われていたのです。信仰者も一日仕事があるのです。従って、教会の集りは仕事が始まる前の早朝か、あるいは仕事明けの夜など、工夫をしなければ捧げられない環境でした。この話でも夜に集いがあるのはそのためなのです。
 
大切なのは仕事があるから、集えませんとは多くの者は考えなかった点でしょう。行けるなら行けますともオプションにもしていなかった。むしろ疲れているからこそ、ストレスがあるからこそ、時間が限られているからこそ、だからこそ自分は主のみ前に出ないといけないのだと言う意識に支えられてのことに違いありません。そこに慰めがあり、励ましがあると知る者にとっては、ともに主のみ前に集まることは、霊的な生命線なのです。
 
ましてや、この日はトロアスでのパウロの告別説教が語られる日。二度と生きては会えない可能性が限りなくあるのですから、この日の集いはいつにもまして人が多かったのかも、とさえ想像します。パウロも、別れの説教となるといつも以上に力が入り、説教が少々長くなったとしても、その気持ちはわからなくはありません。これが最後の機会となれば、伝えたいことが山ほどあって、集いが夜中まで続くのも無理はありませんでした。
 
だとしたら、そこで眠りこける若者ユテコがいても、誰が責められましょう。勘違いはやめましょう。昔も礼拝中に居眠りした人がいたのだと安心させたい話ではありません。そうではない。日中の仕事の疲れで、日々の疲労で、心ならずも眠ってしまったとしても無理はない。窓辺に腰を下ろしたのも、座る場所が見つからず、でしょう。仕事で集会に来るのが遅れて、大勢の人のために部屋の脇へという事情も十分に考えられましょう。
 
劣悪なコンディションだろうが、遅れて入る心苦しさがあろうが、とにかく神の言葉を聞きたい。とにかくパン裂きにあずかりたい。このような熱意にこそ目を向けたいのです。私たちも礼拝と日常の営みのはざまに生きている。仕事に忙殺される現代人も身につまされる。疲れたからだであろうと、それでもわたしを生かす、いのちの言葉を聞くのだと真剣になる姿。そのあなたの姿が証となり、必ず、どこかで誰かを慰め、励ましています。
 
礼拝中にハプニングが起こります。眠りこけた若者が三階の窓から転落し、いのちを落とす。しかし、旧約聖書の預言者エリヤ・エリシャを思わせるパウロの行動と宣言によって、彼は息を吹き返します。あるいは福音書で主が人を生き返らせた姿とも重なります。驚かされるのは、こんな事故が起きた後でも、普通に礼拝は行われたということです。大切なのは、これはどこででもない、礼拝中に起きた出来事だということでしょう。
 
私たちはどこで主に出会うのでしょう。何よりも神の民が集う礼拝で、です。福音書に描かれた同じ主がこの教会にも生きて働き給うことを実感するのは礼拝で、なのです。主が生きて働く時、そこで頂けるのは慰めなのです。疲れた者をいたわり、最悪のコンディションの者を再び立ち上がらせることができるのはこのお方だけです。私たちも主の手足です。あなたの祈りと奉仕で息を吹き返す人が、集団が、共同体が必ずおられます。

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