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第一テモテ2章1節ー3節

「祈りと礼拝から生まれる」
エペソ教会の働きに困難を覚えるテモテにパウロは、まずはじめに祈りなさいと勧めます。別に第二、第三の方法があると言いたいわけではありません。もっとも優先すべきは祈りだと強調しているのです。問題解決のために忙しく駆け回れとは命じられてはいません。何にもまして祈りが鍵だと言うのです。しかもその祈りは様々な言葉で表現されています。つまり祈りの内容はそれくらい深く豊かで多岐に渡るということでしょう。

すべての人のために祈れと言うものの、具体的に世界中の人の名前をあげて祈ることではありません。そんなことは不可能です。祈るべき対象として意識的に排除する人がいてはいけないと言いたいのです。自分はあの人のためにだけは決して祈りたくないなどということはあってはいけないことなのだと戒められているのです。その人をも祈りに含めようと決断することで自分も変えられていくのです。

祈りたくない相手の代表として挙がっているのが、王たちと高官です。権力を持つ政治家のために祈ることに困難を覚える事情があったのです。当時、教会に集う人は奴隷も多かったのです。貧しい者も少なくありません。社会の権力によって踏みにじられた体験を持つ人々にパウロはあえて挑戦するのです。あなた方をひどい目に合わせる人のために祈ることを神は求めておられるのですと。

その目的とは、敬虔と威厳をもって過ごすためだというのです。これは当時の礼拝用語です。礼拝が礼拝として重んじられていく時に、平安で静かな生活が生涯に渡って形作られるというのです。逆から言うと、礼拝が軽視され、礼拝が適当に扱われるなら、落ち着かない生活になってしまうのです。私たちが礼拝へと招かれているのは、私たちの生活を神が良きものへと変えようとして下さっていることのあらわれだと申し上げてもいいでしょう。

当時、暴力に訴えてでも権力を打倒しようとする熱狂が宗教の中にもあったのです。神の名で、ある種の正義感に突き動かされて、反社会的な行動や、破壊的な活動でさえも容認されていく。しかし、その企ては成功することなく多くの者がいのちを落としていくのです。憎しみが憎しみを生む。一体これのどこが落ち着いた生活でしょうか。何かの行動に熱心であることが必ずしも神を敬い、礼拝していることにはならないのです。

行動が無意味だと言いたいのではありません。礼拝を欠いた行動。祈り抜きの行動は危険なのです。自分の力で何かを成し遂げようと熱中してもいいものを生みはしないのです。まずは神がどういうお方であるかを知りたいのです。神が喜ぶ良いことに目を向けたいなら、み言葉と祈りを通してみ前に静まる必要がありましょう。そこから動き出しても遅くはない。礼拝と祈りから生まれてくる行動なら愛を目指すはずでしょう。ゆるしを目指すでしょう。

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