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エゼキエル1章4ー28節

「打ちのめされてから」
かなりぞっとする不思議な光景です。預言者エゼキエルが見た幻は。近づいてくる風と雲は神の臨在そのものですが、神は雲の中に隠されて姿が見えません。しかしその合間からの火や輝き、稲妻だけで目もくらむかのようです。しかもそこに伴う四つの生き物は、翼がある天の生き物のようです。エルサレム神殿とかかわりの深い契約の箱に刻まれた生き物を思わせます。神殿からはるか離れた、忌まわしい地バビロン。ここにも主の臨在があるとは。

自分は神に見棄てられた。何もかもうまくいかない。人生にはそうとしか思えない時もある。いいえ、主は落ち込む者にも圧倒的臨在で臨まれます。現実に翻弄され、裁かれるだけ裁かれ、ボロボロに追い詰められた者をこれ以上痛めつけられることを主は望まれません。それどころかじかに近づくと人は滅びることを配慮して、聖なる主は雲に隠れる形でひっそりと、しかも存在感をもってあらわれます。この方との出会いによって息を吹き返しなさい。

隠れた神。神の闇。罪深い闇を抱えた人に近づこうとする時、神もまたある面では全力を出し切ることはされない。闇をまとい、力を隠し、細心の注意で傷ついた者に歩み寄ろうとなさいます。このような恵みを前に、神をわかったつもりになるべきではない。自分は神のことを何でも知っているとしたり顔になるわけにはいかない。あなたが知る神は神の全てではない。どこまでも秘密のヴェールに覆われた方。それさえもあなたへの神の愛です。

この天の生き物には車輪が寄り添っています。契約の箱を乗せる台車を思わせる幻です。本物の台車なら押す人や引っ張る人がいるでしょう。しかしこの車輪はそのものが生き物のようで誰の力も借りずに自由自在に動き回るのです。主の臨在とは、そういうものです。人の制御がきくようなものではない。車輪は飛行機が着陸する滑走路よろしく地上に降り立つためのもの。人の生活のギリギリのところにまで主は聖なる臨在を現されます。

力を入れすぎる私たち。この家は自分が守らないと。この仕事は自分がしないと。この教会はわたしが支えないと。どんなに美しい責任感も度が過ぎると問題です。主が自由自在に働こうとしておられるのに。あなたが押すことも引くこともない。あなたの自力が信仰生活にかえって邪魔だと言われかねない。今は黙って主の恵み深い、おとりあつかいを受けなさい。全地を見渡す目をお持ちの主が、人生の主導権を握り、近づき給うのを悟れませんか。

さらにエゼキエルが見たのは人の姿のような形でした。主の栄光そのものです。この方の前では天の生き物さえ翼でからだを覆わないほどのおそれ。それにしてもなぜ主はよりによって人の姿のような形をとる必要があるのか。人と交わろうとして身をかがめる方。弱さを身にまとわれる方。しかし、どこまで小さくなられようと神は神です。エゼキエルは主の栄光におそれをなし、顔をふせるばかりです。おそれをもってしか神の言葉は聞けません。

大切なのは神への畏れです。人をおそれる者は、どこかで自分を守ろうとする。人の顔色を伺う者は、自分を庇おうとする。その信仰生活はどこか不徹底です。自分を防衛する自己愛も言い訳も、主の臨在の前に砕かれる必要がある。主に打ちのめされた者に与えられる新しい生。そうでないと生かされない。主だけをおそれる者にしか、できない奉仕に呼ばれています。主の栄光に震えおののき、主以外は何もおそれない歩みへと踏み出しなさい。

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