過去作パート4 「ユング派の彼女」

果糖のような夜に、彼女のアトピーを愛した。舌にのこる粉。ピアニカを縦にして吹く練習を、手の中だけで繰り返した記憶。彼女のうぶ毛は、光が届き過ぎる透明な字幕だった。腕を遠くから見つめていると次第に、皮膚を取り巻く光が美しくなっていく。そうして、そのもののような液体を、どちらがともなくしみこませる。彼女の腕の肌ほど、具体的な時間はなかった。鼻のおくの、頭痛のかおり。とても恣意的に、自分を見失わせると、祈りのような林のなかでは、一抹の不安から、新種の蛾がうまれようとしている。それは、こびりついている苔の、みる夢。ちびたえんぴつ、そんなもので、ひらがなの詩を、しあげられるだろうか。一日、という種を植えた日に、彼女の足下ではすでに、新たな夜気が、群れはじめていた。

だれもが、糸電話のことをかんがえて、哲学者になっていくのがわかる。夏の白鳥が、今もどこかでしている狩りのことを、描きたくてまだ、雨上がりよりも遠いところにある比喩を、出窓からそっと引き入れてからはじめる読書。経験のようにゆれる髪の毛を撫でながらふきこむ風が、どこかで霞むように消失するはずの、遠心力をともない訪れる。彼女はそっと、りんかくを、手放す。拭うための、ひたいがなくなる。夜の摩擦によって、それらがしずかに運ばれていくと、いくつかの果実を、口以外からもほおばりたい。

いつも同じ筆記用具を使い、和訳している。にがい野草を噛むように。彼女の擬人化が、林間学校の空気をたえず、運んでくるような気がした。奇数の日にきまって他人のような雨が降る初冬の、水田をながめながら彼女は、ユングの研究を続けている。この風は異教徒の、祝福も通りすぎているから、たとえ正午であっても異性の夜の、息のにおいが含まれている。ぐうぜん、が、かのじょ、の、こまく、の、はりかた、だ、とすると、自分の耳の奥から未遂の、動詞を探してみたくなる。今日の空は遠くの、刑務所からふくらんできたのかもしれない。翻訳調の文体のような、心地よい酸欠でのぞむ山脈。空気の濃密な森で、君主制の鹿はきっと、美しい免疫を持っている。まだ夏の浅瀬の、純粋な水飛沫をおぼえている野生の足。その夜のアキレス腱は、新しい小説のなかのブナの林から、彼女の肉筆へともどってきた。

朝露は、自分が水滴になったのを、おどろいてしたたる。植物の、病気のところをなぞる水跡。そんな、葉脈にきざまれたまだらにも、誰かの名前がついてる。葡萄の樹の下、農夫の私語。しぼり出す声のように、あらゆるものが、水の途中だとおもえた彼女は、年上の人たちの笑顔が止むまで、将来の疾病の予感が消えない。水面で、おこなわれる虫のいくつもの交尾が、墨をたらすようにとても緩やかだと知るにつれ、続けられていく恋愛。そのことで、母親につく嘘を考えたときふと、宇宙のかたまりに触れてしまったと思った。そして仮に、大人のりんご病に罹ったら、ひかなくなる楽曲がひとつ、あらわれでるような気がして、ピアノの蓋につけた深い色の指紋を、いつまでも拭き取れない。指紋のなかにはまだ光に乱反射する、放埒な彼女の自由がとじ込められているというそんな、感覚から逃れられないでいるから。


これは落選しちゃったやつ。
も少しがんばるよ~。
いつも応援うれしいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?