依頼エッセイ下書き 詩の書き方について どうせ才能なんてないのですから

①才能とかないから諦めましょう。
 自分が、特別だと思っている人がいますが、そういうあなたは、一度死んでください。まず、あなたが、才能ある人を、見たことがありますか?? わたしは、特にないです。人は身近な他人を特別であると、あまり思わない生き物なので、あなたごとき人がこの狭い世の中で特別と、認められるであろうはずがないのです。ということは、書いている人間は、なんかよくわからない在りもしない思い込みで書いているし、ましてや読んでいる人間だって曖昧なのです。
 だからこそ、書きはじめは、いきなりトップギアで、わけのわからんことを、ぶっ飛ばしてやればいいのです。すると、それっぽくなったりします。読者も、ああこれは、などとわかったようなわからんような気持ちになって、なんか知らんけどおもろいかも、みたいになるのです。要は、ハッタリをかます、という覚悟が必要なのです。才能なんて、ハッタリです。強いて言うならば、ハッタリをかます度胸、は必要かもしれません。
 しかし、努力していたり、続けることを愉しんだりしている人は、見かけたことがあります。文章に触れること、それ自体がライフワークになることが、もっとも効率的に、書く行為が、上達するコツだと、私も思います。そうして、ハッタリも次第に上手になるでしょう。
 だいたいにおいて、書きたいこと、なんてありますか。そんなの書き始めて、2ヶ月くらいでなくなりますので、私にはないです。とっくに無いです。なんとなく、書くと落ち着くので書きつづけてたら、詩の仲間もできてきたし、なんか愉しげだから、まーいっか、と、この有り様です。
 つまりは死ぬまで、ハッタリをかまし続けたやつが、まぁまぁ上手く愉しめる、ということなのでないでしょうか。

②偶然に頼る
 ロジカルシンキング、という意味のわからない言葉がありますが、ロジカルではないシンキングがはたしてあるのでしょうか。そんなクリティカルで、アーティスティックなシンキングがあるのであれば、私も手に入れたいところです。
 自動筆記、というシュールレアリスムのアバンギャルドたちが、開発した詩作法がありますが、私には合いませんでした。人間の脳は、どうやら意外と論理的にできているみたいです。突拍子もないワードセンスは、黙っていても、酒を呑んでも、出てきませんでした。これは、ただ滝行のようなものかな、と思いました。修行をしているフリ、のようなもので、半年近く、真剣に取り組んだことがありましたが、結論は、私にとっては意味ねーな、でした。
 おもろいな、思ったのは、ダダイストたちの手法の方でした。トリスタン・ツァラがポエトリーフェスで披露した「帽子のなかの言葉」という詩作法があります。新聞や雑誌の、フレーズや、まぁまぁ気に入った言葉などを切り取って、無作為に、ただ単語を並べるだけ、という手法です。
 たいていは作品とも呼べないわけのわからないものが、仕上がります。例えば、ある日わたしが、新聞記事から切り取って作った一行を示します。「厚生年金保険は、カタツムリ、の、燃えるコレステロール、だった。」、変な、文章になります。この感じでは、どうしようもありません(いや??… なかなかいいかな…?)。しかし、五十行くらい書いたら、そのうちの一行くらいは、使えるフレーズ、のようなものがうまれたりするのです。
 俳句などでも、これと似たような手法を用いて、創作している方がいます。生成AIですらありません。ただ、気に入った単語を切り取り、帽子のなかに、放り込んでガラガラポン、と出して並べる。そうして、仮に良い一文が生まれたとします。その一文を、原稿用紙の三枚目の中程に、仮に置きます。いや、どこだっていいのですが、とにかく仮に置くのです。またおもしろ一文がうまれたら、今度は二枚目の後ろの方へ、そしたら今度は一枚目の二行目あたりへ、という具合に、次々に置いていく。すると、どうでしょうか、原稿用紙がしっかり埋まる頃には、わけがわからないへんてこりんな文脈が一文一文の間に、生まれたりするのです。そこで読者は、勝手に想像をふくらませます。きっと作者には、この行間の飛躍に、深い意図を忍ばせたのではないか、と。でも、そんなものはありません。そう思ってくれてラッキー。
 大事なのは、無作為であること。どうせわれわれには、才能なんてないのですし、書きたいことなどとうに見失っているのですから、もうこうなったら、なるべく自分の意志を、介在させない書き方を試して、偶然に期待し、読者の勝手な想像力に、頼るしかないと思うのです。

③品詞分解
 気に入ったフレーズ、というのがあるのであれば、他の誰かの、詩篇から拝借してもいい、と思います。しかし、そのままのかたちで、自作に組み入れるのであれば、それは誰にでもわかる、パクリ、となります。わからないようにパクらなければならない。ってか、わからなければOKです。
「蛙のたまごのぬめりけでとどまり続ける」
これは、わたしの作品の一節です。例えば、奇特な方がいて、岩佐のこの詩の一節、まぁまぁ良い、パクりたい。と思ったとします。でも流石に、このままのフレーズだと、パクリだとバレます。なので、品詞分解をして、語句をずらしていきます。具体的にどうするのかを、次に示します。
「蛙 / の / たまご / の / ぬめりけ / で / とどまり / 続ける」

『<名詞><(所有の)助詞><(状態をあらわす)名詞><助詞><自動詞(複合動詞)>』:厳密な分析ではなく、自分なりの理解で良いと思います。

「馬 / の / 蹄鉄 / の / 冷ややかさ / で / 立ち / すくむ」
語句を、任意にスライドさせ、入れ変えるともうパクったかどうかわからなくなります。そうして、この組み替えた一文がもし、気に入ったのであれば、先の通り、原稿用紙のどこか適当なところにでもぶっこんで、文脈というものを、拵えてくれればいいのです。

④ライフワークにする
 先にも少し述べましたが、私自身もっとも心がけていること。謙虚であるということ、に尽きると思います。謙虚でなければ、面白い一文を追求するための、書き続ける、という行為が、成立しないと思います。さらに、③で述べたように、この一文ステキだな~パクりたいな~、とも思わないでしょう。謙虚に文章を、書くことと読むことを、愉しむ。これこそ、たくさんの情報を仕入れ、出力するうえで、効率的な態度だと思います。①のハッタリをかます、と一見矛盾するようですが、人格のうえで決して、相反するものではありません。
 結局、多作である作家にはかなわない、と思うことがあります。多作であれば、②や③のもととなる材料がふんだんにあるということです。その材料をまた時間をおいて、切ったり貼ったりずらしたり、パズルゲームのごとく組み合わせれば、また趣の異なる語感や文脈なるものが、現われてくるのです。そうして、それらを眺めて、ニヤニヤ薄ら笑いを浮かべる。そうやって愉しんで、長く書き続ける人の勝ちです。詩は、生きることを愉しむための道具なのですから。


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