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丘の上の異界〜寺崎英子の写真によせて

宮城県北部にある、とある鉱山跡。
ここは、小学校高学年〜高校生までのわたしの大切な異界だった。

わたしが生まれ育った農村では、わたしは完全に余所者だった。彼らが悪いわけではない。人の笑顔や手作り料理のやりとり、地元への愛着、家族など、ふつう安らぐものが、なぜかわたしは気持ちが悪く、不安になり、少しでも離れたいものだったというだけだ。

その時間は隔絶されていられるので、読書と、詩や小説を書くこと、高校生になってからは戯曲を書き演出することに没頭していた。気持ち悪いものに取り巻かれているが気持ちいいフリをしなくてはいけない日常の中で、息ができる時間だった。

鉱山は不思議な場所だった。
昭和初期には、一攫千金のため全国から労働者が集まり、花街のような場所や映画館もあったという。戦時中は強制連行された労働者がいたという話もある。わたしが行くようになった頃はすでに閉山が決まり、映画館は営業していなかったが、その残り香が人気のない建物に漂っているような気がした。この土地には一種類しか人がいないが、色々な、会ったことのない種類の人がいた痕跡が残っていた。仙台も都市だが、綺麗に消毒された住みやすい穏やかな街で、たとえば新宿や渋谷のような猥雑さはない。その時はもちろんそういう街に行ったこともなかったが、何となく、その香りに惹かれた。そして、その容れ物だけが残っているということと、巨大な煙突の醸し出す怪獣のような威圧感、坑道の闇に繋がる入り口、それは心安らぐ死の気配、かぐわしき不在の薫りだった。一人で、猥雑で暗く、ここにいない種類の人たちが楽しげにさわいでいた夢を見ることかできた。それが夢にせよ。

もしかしてわたしの「仲間」がここにかつてたくさん住んでいたんじゃないかと、子供らしい肥大した自尊心で夢見た。鉱山を見上げる公園に一人で行って、よくぼうっとしていた。カセットウォークマンで音楽を聴いたり、詩集を読んだり、ノートにアイディアを書いたりした。

実際に住んでいた方には、もう少し穏やかな日常があったろうと大人になった今は思う。でもとにかく、思春期の困った子供がそういう風に思える場所だった。

その土地を離れて上京し、20年以上が経った。徐々に人もいなくなり、東日本大震災のあと、わたしが見ていた建物もすっかり撤去されたらしいと聞いた。

2024年1月。
写真展に行ったという方のTweetが目に入った。「細倉鉱山」という単語に心が跳ねた。それは、寺崎英子という、細倉に暮らした人の、写真展と、写真集の紹介だった。

すぐ調べた。細倉に写真家がいたなんて、芸術家がいたなんて知らない。芸術家がいれば、良くも悪くもとても目立つ土地だ。細倉が無くなっていくのを記録した写真なんて、わたしが見逃すはずがない。

そして本当に衝撃を受けた。
寺崎英子はすでに亡くなっていた。
故人の考えを知る術はないし、憶測でものを言うのは避けたい。しかし持病があり小学校にも行っていないという彼女が、独身であった彼女が、中年になってから人知れずカメラを持ち、写真を撮っていたということ。どんな写真を撮っていたのか家族も知らず、現像していないネガフィルムだけが遺されたということ。あの土地で表現をするということ。表現をしなければ生きられない者があの土地に暮らすということ。考えすぎかもしれない。実際はぜんぜん違うかもしれない。ただわたしは、あの土地で感じた疎外感をはっきりと思い出した。

写真集を注文した。心を鋭く刺すもの、探していたものがあるような予感がしていた。写真集が届き、作品を見て、わたしはあまりの感動に声を殺して泣いた。

所謂、失われゆくふるさとを温かく見守り遺した写真以上の、寒気がするような鋭さと、深い孤独があった。
冷静で、気取らず、記録写真臭さも労働運動臭さもスナップ臭さもない。まちおこし臭さもナルシズムもない。
ただ、切実で冷静で、孤独で、可愛くて親しくて、どこか線が引かれていて、でも深く街を愛している態度がある。写真を撮らずにはいられなかった衝動が、切実さだけがある。無くならないで、置いていかないでという想いが写っているような気がした。それを彼女が実際に思っていたかはどうでもいい。作品に写っているものが流れ込んできて心がわなわなと震えた。彼女が写真を撮っていた時期、場所は、間違いなくわたしが一人で行ったところだった。公園の写真もあった。座ったブランコすら写っていた。

そこにいたんですか。わたしが公園で一人でぼうっとしていたすぐ近くで、あなたはシャッターを切っていたのですか。こんなことが。会いたかった。話をしたかった。詩や絵画や写真や、生きること、孤独のこと、表現のこと、話したかった、そう思った。そして写真を通していま話ができた、そう思った。

彼女の死後、写真を現像し、写真集を作られた小岩勉さんに感謝したい。わたしたちは出逢えた。あのときほんの数百メートルの距離まで近づいたのに、存在さえ知らなかった。もしかしたら親友になれたかもしれない魂に出逢えて、作品の中で打ち解け合うことができた。表現は。芸術は。こんなにも秘密の二人きりの話をさせてくれる。

今は亡き場所に、今は亡き人に、孤独に、触れて、涙が止まらない。

ぜひ寺崎英子の写真を、一人でも多くの人に見てほしい。

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