ノート用

月曜日男と水曜日女とどこの曜日にも属せない人

月曜日は男、水曜日は女だとしたら、どちらでもない人々はどの曜日に逃げればいいのだろうか?

逃げ場をなくしたわたしはただ毎週その文字を見ては違和感を抱くしかないのでしょうか?

一人でも多くお客様を呼びたいという気持ちから始めたかもしれない「月曜日はメンズデー」「水曜日はレディースデー」で大きな経済効果を収めた今、映画館のみならずあちこちで行われるようになった。

水曜日、レディースデーで女性はポイントが3倍になります!という旗の形をしたPOPを廊下に立てて人気の少ない光景をわたしは見ていた。レディースデーのはじまりはとあるデパートの休業日が水曜だったため、映画館に人が集まらなかった。当時は男性よりも女性の方が趣味娯楽に時間を費やす余裕があったため、水曜日はレディースデーとして映画割引を始めたという諸説がある。しかしそれはとうの昔の話であり、今一度見直したほうがいいんじゃないかなとわたしは毎週水曜日そう考えている。

もう男と女というのは身体的特徴でしかなく、今は誰もがチャンスが掴める、チャレンジができる環境が整いつつある。誰が何を好きになろうとも、それでいい。多様性が認められつつある今、このような「メンズデー」「レディースデー」は時代に合っていないように思う。

しかしやっかいなことに生まれた時から今まで育ってきた環境による人の根底にある意識は強いもので「男はこうであるべき」「女はこうであるべき」というものが残っていてなかなか離れなく、時にはそれが偏見や差別につながってしまう。

生まれついた身体の特徴の違いから男と女という名前が付いただけなのに、どうしてこんなにも複雑になるのだろうか?

男は女を守らなければならない。女は男を愛さなければならない。男は戦場へ赴き、女は家で守るものだ。男は強くあるべきで泣いたら男ではない。女は美しくあるべきでだらしなかったら女ではない。男は魔法少女に憧れるべきではないし、女は正義のヒーローに憧れるべきではない。そんな守るべき意義も見出せない暗黙のルールのようなものが多すぎる社会がわたしは物心付いた頃から嫌いだった。

好きなものを好きというだけで異常な目で見られるのはなぜだろうか。

好きなもの同士で集まって語りあうだけでそれだけでいいのに、なぜ「男」と「女」を持ち出して差別をするのだろうか。身体的特徴と好きなものはこれというほどの繋がりはないはずなのに。

毎日そんな不思議を抱えながら今日も生きていく。変わっていく世の中でいつかは「メンズデー」「レディースデー」という言葉ががなくなりますように、と思いながら。

そしてなくなるかわりに新たなデーを作るとしたら、わたしは「素敵な笑顔デー」「元気に挨拶デー」などを作りたい。素敵な笑顔を見せてくださった人に、元気な挨拶をしてくださった人に、サービスをする日。

そうして人と人の繋がりがいつもよりちょっとだけ深まる日。そんな日もいいのではないでしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?