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新コロな宇宙。(くたびれた自販機でふたつ、缶コーヒーを買って)

5/16、土曜日。結局のところ今週は、アタマの月曜から毎日仕事をした。明日は日曜。定休日扱いで休む。営業時間はバラバラだったくせに定休日はきちんととる。勝手なものであるが、まあ事情が事情なので、労働倫理の神様もお赦しくださると思う。

新コロさん爆誕後、恐怖の引きこもりセルフロックダウン40日間のあとで、これは大丈夫やなと1週間お店に出てみて今どう思うかというと、まあ平気である。ただおもしろいのは、一見さんが来ると(来はるのだ、これが。だってバーは開いてないようだからねまだほとんど。混むのもなんだかなと思って値段表の看板もわざと出してないのに、それでもふらっと一見さんが来てくれはるのだ、どーなってるんだ世界は)、ちょっと怖いのだ。知ってる人ならまるで怖くないが、知らない人だとまだ接客の最初がちょっと怖いのだ。これがおもしろい。実に興味深い。要するに、これは未知への恐怖なのだ。今のところそう結論づけるほかない。知ってる人であろうと知らない人だろうと、新コロさん(仮)の存在可能性は変わらない。だけど古傷のしこりが微かに疼くのを感じる。これは本当に興味深いと思う。人間(あるいは僕)の思い込みや主観の在り方などを見抜く上で、良い資料となると思うので念のためここに記しておく。未知と恐怖は根が繋がっているかもしれないということ。

あとまだおもしろいのは、新コロさんなど存在しない(あるいはインフルエンザと同程度の存在である)と思っていると、特にメディアに接したときに“存在するのでは?”というアイデアがふいに頭をよぎるが、存在していると思ってみていくと、“ねぇな”となる。このゆらぎ方もおもしろい。無いと思えばあるし、あると思えば無い。やはり主観や視角、ものの見方/見え方というのは、ほんとうに不思議なものと感じる。手品みたいだ。人間の認知の仕組みをよく深く理解していなくては繰り出せない手品だ。人間とは奥深いものと改めて感じる。そこに答えなど無い。そもそも答えという概念は教科書や試験問題の世界にしか存在しない。あるいは正答した瞬間に、それは新しい設問へと化けるのだ。それが実相だ。。そしてそうでなくては、ウンウンと考える楽しさも無いし、だいたい考える行為とも言えないだろう。もしも正答して終わるなら、それは脊髄反射したに過ぎない。脊髄反射と真逆の位置に“考えるという行為”はあるに違いない。でもいかんせん脊髄反射が一番楽なので、そうやって生きていきたいが、喜びもまた無いように思う。それは未知を知り、越えるときの快楽であーる。


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