貧相な家に住んでいるのを知られるのがイヤだった【自分史】
今日も良い1日だね。
こんにちは。
さとるだよ。
前回、自分史として泣き虫時代の幼少期の事を書いた。
シリーズじゃないけれど、今回は小学生時代を思い出して書いてみるよ。
小学生の低学年の頃も相変わらず甘えん坊で寂しがりやだった。
でも友達は多かったし、当時はゲームなんてないから、外で遊ぶくらいしか遊び方は無かったからとにかく夕方まで遊び尽くしまてた。
私の生まれ育った沖縄県の嘉手納町は自然の多いところだったんで遊ぶネタには困らなかったなぁ。
近くに漁港があったんだけど、その漁港の近くに放置された、使ってない漁船があったんだけど、良い遊び場だったよ。
あの船の中の独特なニオイ、空間、まだハッキリと記憶している。不思議だよね。
当時の男子の遊びは野球一択。
地域の年上の兄ちゃんたちが野球をしているのを見て私も自然に野球を楽しんでた。上手くはなかったけどね。
この野球の経験が仲間と遊ぶ楽しさを知った初めての体験だったはず。今でも強烈に覚えている。あの楽しかった雰囲気を。
4年生になり、どんなきっかけかは忘れたけどさ、競泳を始めたんだよね。最初は隣町の沖縄市のスイミングスクールに通っていたよ。
結構、水泳は早くて、群馬県のスイミングスクールにも交流に行ったりと、自分をとりまく世界が大きくなったのを初めて感じた頃でもあったなぁ。
私の息子も小3でハンドボールを始めたんだけどさ、早いうちから本格的にスポーツをするのは良いことだよね。色んな学びがある。
先輩・後輩みたいな人間関係とか、スポーツの楽しさとか、友情。そんなものがいっぺんに学べる。別にインドア派とか文化系の活動を否定している訳ではないからね。誤解のないように。
話がそれちゃいましたが・・・
結局、初め行っていたスイミングスクールが諸事情で倒産してしまい偶然出会った他の指導者と自主練?みたいな感じで平泳ぎで県記録を狙って練習するなどそれなりに水泳に打ち込んでたよ。
そうそう、英語も4年生頃から習い始めたなぁ。嘉手納から首里に週に1回通ってた。今考えたら両親は送迎が大変だったと思う。あらためて、親には本当に感謝だよ。
でも・・その頃の本心は水泳も英会話もあまり熱心には打ち込んでいなかった。というかキライだった。
友達ともっと遊びたい!という気持ちの方が強かったな。みんなは遊んでいるのになぜ??みたいな感情が大きかったな。今なら分かるけど、親と子の見てるものが違うから温度差はどうしてもあるよね。
そんな事もあってか?順調に反抗期に入ったよ(苦笑)
当時は背は大きい方だったので少しグレたり、女の子と付き合い始めたりした。隣の小学校の女の子とも遊んだりしたなぁ。タバコも喧嘩もした。何に対してもNoだった親をものすごくキライでその感情を非行で紛らわせてた。今、考えると幼稚だよね。
それと・・・今だからやっと話せるんだけどさ、当時、親父が手作りで作ったトタン屋根の質素な家に住んでいたんだ。
手作りといってもウチの親父は大工並の腕前だったのでDIYのレベルは超えてたけどさ。でも子供心にトタン屋根の家がすごく恥ずかしかった。
雨が降ればカランコロン鳴るし、みんな瓦屋根とかコンクリートの家なので自分だけ・・・とコンプレックスだった。
今では、親は苦労していた事を知っているのでむしろ感謝しているけど当時は本当にイヤだった。
友達に自分の家と知られたくなかった。
家が貧乏なのは理由があった。
親父は若い頃に交通事項にあい体が悪くそのため外で継続して働く事ができなかったんだよね。
大体、家にいるんで私は、子供心に他の家庭と違う事にとても違和感があったよ。
「さとるのお父さんの仕事は何?」と訊かれるのがイヤだった。
でも不思議なことに 私はフリーランスで起業して,親父とおなじように家で仕事している。
あんなに子どもの頃は嫌がっていたのに自分が同じようなライフスタイルになっているのが不思議だね。
最後まで読んでくれてありがとう。
また明日♪
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