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【心問書簡】 自意識過剰


PANTERA(パンテラ)が再始動するそうだ。
いきなり何のことだと思われる方もいるかもしれない。私にとってメタルといえばまず思い浮かぶバンドの筆頭格で、リアルタイムの世代ではないがアルバムは全て聴いてきたし、それなりに思い入れもある。賛否両論あるそうだが、個人的には楽しみにしている。

ギターのダイムが撃たれてしまってからずいぶん経つが、今から数年前、今度はダイムと共にバンドの創設者であった、実兄でドラムのヴィニーが病に倒れてしまった。
ダイムバッグ・ダレルがライブ中に撃たれたというニュースを最初に知った時、私はロサンゼルスのダウンタウンにいた。その時、道を歩いていたのか、車を運転していたのか、あるいはバスに乗っていたのか覚えていないが、建物の外観が陽光を反射して、海面のように光っていたのをぼんやりと思い出せる。
十代の頃の自分を熱狂させたギター・ヒーローが亡くなってしまった悲しみとショックは、じわじわと自分の内側に広がっていったが、やがて自分が彼のことを、もはやそれまでの遠い存在としてではなく、まるで個人的な関係のように親しく感じていることに気がついた。それは自分が彼と同じ国にいて、同じ言語で生活し、その中でそのニュースを受け取ったということも、少なからず関係していると思う。しかしそれから何年も経ち、今度は日本の東京で、ヴィニー・ポールの訃報に接した時、やはり悲しみと同時に、彼や彼の残した音楽と自分との間に、一種の親和性が増していることを感じ、判然としない気分になった。

それからしばらくして、こんなことがあった。
友人が人に騙されて酷い目にあったというのを、ひとづてに聞いた。
うな垂れた彼の姿を想像すると、気の毒に思う気持ちと同時に、彼と「より分かり合えるようになった」様な気がして、ほんの少し嬉しかったのだ。
薄情なやつだと自分を訝しんだが、しかしそのとき、同時に、自分が彼ともっと分かり合いたいと、分かり合えるはずだと思っていたことに気づかされたのだ。
自分にも同じように人に騙されて悔しい思いをしたことがあった。だから、彼の悔しさや情けなさを少しくらいは想像できるし、彼もまた、私の話を聞いたら理解してくれるだろう。そういう期待が胸をかすめたのだ。それはほとんど生理的な反応と言っていいかもしれないくらい、瞬間的なものだった。

重要なことの多くは、はっきりこうだと断定できないものばかりだから、そのまま受け止める以外にない。
そのことに帰ることを拠り所とし、そこにいることを拠り所としない。
そんな当たり前のことを、言葉にするとこんなにも長くなってしまうのは、駄文のせいによる。
そして、対象が何であれ、感情とは孤独も含めた人間関係である、と分かったような気になっている。
そんな自分に、無論、何かを断定してしまうほどの勇気も覚悟もないのである。
などと言うのは、ちょっと自意識過剰だろうか?

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