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われらをめぐる死

高校一年の夏に母が亡くなった。もう10年以上経っている。あまりに衝撃だったので、15歳の1年間で向こう10年分くらい死について考えた。悲しいやら悔しいやら、怒りとか苦しみとか、ある種の喜びとか救いさえも、全部滝行みたいに味わった。葬儀場の親族用控え室の畳の匂い、見たことない量のドライアイス、灼きたての遺骨って本当に熱いんだって変に達観した自分、泣いてる他人見るのってこんなに不快なんだって初めて気付く自分、噛みすぎて血まみれの指、ちらっと見えた葬儀場からの請求書。そのひとつひとつに張り付いて取れない感情。全部あの時俺の中に入ってきた。

死について真面目に考えるのを辞めて10年経つ。何せあの夏に10年分予習したんだから。どれだけ願っても故人は帰ってこないとか、振り返るのはやめて前を向こうとか、そういう尊すぎるクリシェじゃない。ただもう、疲れたし飽きた。メディアも人からの伝聞も本も映画も、人が死ぬってことに関して何か新しい洞察をくれたことは、あの夏以来一度もない。全て俺が先に通った路だ。俺が先に通しておいた路だ。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を書き終わった時の気分みたいな。読んだことないけど。

でも俺には、これからまだまだ新しい、新鮮な死が入ってくる。今すぐにではないと願ってるけど、確実に。祖父母だってそうだし、もう二度と味わいたくないが、親しい誰かが自ら選ぶことだってあり得る。その時が来たら、10年分のブランクを負った俺はそれを受け止めきれるか?みんな年に一回くらいは死について真面目に考えてるのかな。俺はこの10年間一度もない。疲れてるから。セウォル号とか、ジョージフロイドとか、東名煽り運転とか、あるいはこういう衆目を集めやすい事件だけじゃなくて、貧困と格差を推進するこの我が美しき国によって毎日殺されている、報道と福祉の網、というよりザルに引っかからない大勢の子供たちとか、色んな死に囲まれてる。レイチェルカーソンはわれらをめぐる海って言ったが、違う。全然違う。俺から見える世界はわれらをめぐる死だ。グロテスクな死だ。でも俺は直視してこなかった。飽きたから。どうしようもなく辛くなるから。一寸先は死って思い出すのが怖いから。人の死を苦しむ自分も、人の死で救われる自分も、もう11年前に一旦やり終わったから。

年々薄れつつあるあの夏の日々の記憶を思い出してみようか。そしたら俺は次に入ってくる死を直視せずに済むだろうか。いや、やっぱりそれは辛すぎる。明日辛い思いをしたくないからと云って、いま辛くなりたいわけでもないんだから。

予習って良いことばかりじゃないな。

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