自閉症持ちの ゲーム開発人生
※この記事はわたしの人生がほとんど記載されています。
わたしのプロフィール
学生時代
私は小学2年生あたりからずっと
登校はしていたが、授業は受けずに遊具で遊んでいました。
特別支援学級や相談室という場所に学校が終わるまでずっといましたので、
世間一般の学校生活は送っていません。
自閉症に関しては11歳の時に診断され、
障害者手帳の判断では等級A(重度)と書かれていました。
小学校を卒業してから中学校に上がった
瞬間、数日でいきたくなくなり不登校になりました。
集団生活が苦手な自分は自宅でインターネットで
スカイプ繋ぎながらネットであらゆる人とゲームをしました。
とびだせどうぶつの森の逃走中はいまでも
思い出にある企画です。
不登校というのを隠し13歳でスマホを当時iphone4sを片手に
Youtubeを使ってゲーム実況動画投稿をしたりもしました。
( いまは動画は残っていません )
当時のTwitterはアカウントはあります。 当時15歳
学校は3年間ずっと行かないで卒業式だけ出向いて
卒業証だけをもらいました。
中卒後
学校生活を中学で終わった自分は、
郵便局の短期バイトなどへ行ったりハローワークを使って
障害者雇用のA型事業所などを利用しながら帰りにゲームを
ひたすら遊んでいく生活を送りました。
はじめて利用したA型事業所は軽作業ですが、
この事業所は1年で倒産(サービス終了)しました。
人手不足、作業の催促などあって、大変でしたが
自分はここのおかげで次は仕事選びを
注力するようになりました。
ターニングポイント
19歳になっていた自分は
事務職のA型事業所に働きながら
自宅でDTM作曲をしていました。
小さいころから作曲家になるのが夢でしたが、
どんな作曲家になるのか?という具体的な夢はありませんでした。
いろんな曲ができるにつれ、フリー音楽を出す作曲家になるか?など
考えましたが、
自分の好きなものを改めて整理するとそこには
ゲームという単語が頭に浮かんできました。昔から
任天堂、SEGA、スクエニ、カプコンなどのゲームをとことん
遊んできたから、好きなものを繋ぎ合わせると結果的に
ゲームBGMの作曲家を目指せばいいという
決断に至りました。
しかし自分は他の人が作ったゲームに
音楽だけ提供するという道はあまりにも面白くないと
直感しました。ゲームの世界観を考えたり、デザインやプログラミングなどいろんな分野をした方が価値観的に楽しいから、
個人ゲーム制作をする事にしました。
ゲーム開発 スタート
まず現実的に可能なのかどうか事前に調べてから
スタートを切った自分はCaveStoryというゲームをみつけて
2Dゲームなら一人でも作れる時代なんだと分かったため
まずは2Dゲーム開発をスタートしました。
ここで大きな壁にぶちあたったのが
プログラミングが予想以上に数学的だったという事実。
ぼくは学生時代にも書いてある通り勉強なんてのは8歳あたりからまともにしていないため、四則演算も掛け算までしかしっかりわからない。
でもどうしてもゲームを作りたい・・。
そんなときどうしたらいいか考えた結果、
RPGツクールというツールを見つけて、
早速ダウウンロードして使ってみたら
プログラミングなしので感覚的にテンプレートを
置くだけでできることに感動した。
RPGツクール ゲーム開発記
だがここでも壁が出た。
キャラクターのセリフ動作を作るときに出てきた言葉に
プログラミングの要素(変数、スイッチ)などが出てきた。
変数ってなんやねん!スイッチってなんやねん!
ずっとこれにぶち当たって中々ゲームが作れなかった。
10年間勉強をしてこなかった者の仕打ちである。
Youtubeでチュートリアルを見ても理解できなかった自分は、
19歳にして四則演算をまともに勉強しはじめ、
そこからちょっとずつ
プログラミングの変数、条件分岐、ループ処理,などを
勉強して使えるようになってきた。
時が経ちはじめて作ったゲームのタイトルが
[混沌の世界に冒険した件]。
このゲームはその名の通り、混沌としたステージやキャラクターなど
ストーリーなどが破茶滅茶なゲームとして仕上がった。自分が面白いと思った要素を注ぎ込んだ作品。ただし敵のエンカウントが無駄に多かったり、
所々ステージの構造がわかりにくいところあったり課題だらけだった。
この経験から自分はすこし
客観的にゲームを作るというのを目指して
3年後に「野生の老婆」を作った。
このゲームの舞台は狩人の爺さん達が
晩御飯を求めて、プレイヤーの鶏を追う話。
鶏は、世界的に見ても上位に君臨させるほど
数がいる生き物だけど、この世界の鶏は、狩人の爺さんが
鶏を過度に狩りすぎたため鶏が最後の一匹になっている。
最後の一匹の鶏がレベルアップにより強くなっていき
最終的にこの世界の統領を倒していくという流れになる。
こういうふうに執筆日:2024年現在でも
遊ばなくても説明できるほどに、このゲームの内容は
しっかり定着できたと思っている。
そして自分は、RPGツクールで作った経験を活かし
新たなステップを飛ぶことにして、GameMakerStudio2で
ゲーム開発をスタートした。
なぜGameMakerStudio2なのか、
それは自分の好きなゲーム[Deltarune]が作られていたから。
このゲームもインディーゲーム制作者が作っている。
名前は言わなくても大抵の人はわかると思うので省きます。
GameMakerStudio2 ゲーム開発記
ここにきて初のプログラミング挑戦である。
だけど案外感覚的にコードがかけた。おそらく
RPGツクールのノーコードで作る機能が
イメージとしてあったからだろう。
だけど、やはりノーコードとガチガチのコードで
作るのでは難易度に差が出て、いろんなバグに遭遇した。
それにツクールではある程度テンプレートが外部からダウンロード
しなくてもあったため作りやすかったけど、GameMakerは完全0からなの
スタートなのもあって難易度が全然違った。
結局のところ野生の老婆ほどの作品はつくれなかったけど
ツクールでは作るのが難しかった、PCアクションミニゲームは
いくつか作れた。
それがこの3作品
SATATI TRIP
Notitle (Space Animal)
CloudForth
どれも GameMakerStudio2で作ったミニゲームで、
ドット絵などはほとんど自分で描いて、音楽も自分で作った。
完全ソロで作ったミニゲーム。それぞれ異なる設定の世界観を
つけているけど、一番時間がかかったのはCloudForth
(クラウドフォース)だった。
クラウドフォースは主人公のミョドギィという
妖怪犬が空を飛び優雅に冒険しながら
興味本位で探している天使雲という
宝をステージのボスから入手することを目的とした
浮遊型アクションゲーム。
小さなミニゲームで
一応舞台設定はあるけど、
この物語は途中で終わっている。
現在へ
2024年執筆日の現在は今後の未来を考えると3Dゲームが主流に
なると思ったため、アンリアルエンジン5で3Dアクションゲームを
作っている。ブループリントやUnrealEngine C++など難易度は
飛躍的に上がったが、EditorのUIが創作意欲を搔き立てているため
制作に夢中になれる。
これからも個人ゲーム開発をつづけていきます。
最後に現在UE5の勉強しながら作っているゲームのピクチャーを提示。
以上です。
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