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[詩]名前

お彼岸には一族が集まることになっている。と、言っても集まるのはせいぜい十余人。立ち居が不自由になってきた伯父伯母は年を追うごとに減って、とうとう一人になってしまった母は車椅子で参加する。齢百と言われればそうとも見える老人もいる。幾人かの若い人は、どこの誰かもう判らない。
菩提寺の奥に墓所がある。並んでいる墓石には、苔生したのも雨風に徹底的に丸められたのもある。殆んどの世話は寺男に任せているのだが、この日は形だけ墓石を洗い、花を供えて読経に手を合わす。
今年は晴れて、線香の煙が真っ直ぐに立ち昇っている。

本家の仏間の立派な写真に飾られている大伯父。その一番上の兄が子供のころ死んだ。何でも、腐った餡こにあたってあっと言う間に亡くなったのだ、と聞く。その子の墓石はどれなのでしょう、と訊くと〈此処にはありません〉と。〈ひとりだけ入れていないのです。本家の長男がそんなだとみっともないので、どこにも名前は彫ってありません〉

この話を聞くのは初めてではない。しかし、今日初めて会う未亡人然とした老婆は、その先を口にした。
〈食い意地を餡こに罰せられた恥ずかしさからひとりだけ名前も刻んでもらえなかった子、と口伝えに聞かされますが、それは作り話。本当は、若いときから人の道に外れたことのし放題で、ついには身持の悪い女と一緒に身を投げたならず者。躰には彫り物も刃物傷もあったのです〉その婦人は一部始終を小声で、しかし明瞭に語り続ける。指の皺ひとつ見逃さない語り口で、活劇は止まらなかった。
その長男は何ていう名なのですか。〈名前?存じませんわ。どこにも残ってをりませんもの〉
掠れた線香の煙が風に消えてゆく。

お坊様をお見送りしたあと厨へ向かおうとした時、いつもの寺男が小声で話かけてきた。〈話し込んでおられたあのご婦人は、どなたなんでしょう〉

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