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自由詩、散文詩

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現代の日本語による自由詩または散文詩
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#創作大賞2024

[詩] 遠い目

[詩] 遠い目

〈春は暑い〉と祖父はよく言った。躑躅色の広がる庭から戻ってくると、汗だくになった日本手拭いの頰被りを取りながら、離れの縁に腰をおろした。汗がながれる。書斎人ではない老人の弛んだ首筋は、よく日に焼けている。
庭仕事をねぎらって祖母がお茶を運んでくる。もっと冷えたのはないのか、などと爺が言うものだから押し問答になる。それも毎年のこと。茶碗を片してしまうと水屋から、そろそろお相撲がはじまりますよ、と声が

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[詩] 筆と石鹸

[詩] 筆と石鹸

大きな赤い屋根のうちに先生は住んでいた。一階の扉が大きく開くアトリエで、古代ギリシャ人みたいな髪と髭をしていつもひとり絵を描いていた。

〈見たままに描くんだ〉と、教えた。なめらかに筆を動かして艶のある色を塗った。太めの筆の少し上をつまむように握ってパレットで色をつくると、筆の先から色彩がひとりでに流れでてゆく。〈目に入るけしきに空白はないだろう。だからどの色も大切にしてキャンバスを埋めてゆくんだ

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[詩] 声

[詩] 声

テレビを突然消したものだから茶の間は混乱した。今夜、皆で歌番組を見ていると、爺の左手が急に電源を切ったのだ。姉や母や婆が〈いいところなのに〉と口々に小声を尖らせる。何が我慢できなかったのか、爺はもう土間に降りようとしている。〈点けてもいい?〉と中学生の姉。もう少し待ちなさい、と父。〈戦争から戻ってかれこれ三十年にはなるのにねえ〉蜜柑を取ろうとしていつも通りに婆が尻をあげる。女の声高い歌謡曲がつっと

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[詩]息子の太い腕

[詩]息子の太い腕

まだ日も落ち切らない夕方。
いつものパブの薄暗い店内にはもう一人二人の客がいた。機嫌などと言うものはとうに忘れてしまった店主が、パイント・グラスに視線をむけて〈いつものですね〉と一言も発せず訊いてきた。
大した仕事のある身の上でもないが、その日のことなどを思いだしながら、晩飯前にここへ寄って一人エールをぐずぐずやるのが習いなのだ。
娘は去年遠くへ嫁いだのよ、と女房だったのがこの前言って寄越した。そ

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