自灯明・法灯明
太陽は、疑う余地もなくいつも照らし、恩恵を与えています。
様々な解説を読んでみましたが、まずはAIに解説してもらいます。
自灯明・法灯明とは、仏教の用語で、自分自身を明かりとして進み、仏の教えを明かりとして進むことを意味します。
この言葉は、お釈迦様が入滅する前に、弟子のアーナンダに残した最後の教えとされています。
お釈迦様は、自分がいなくなっても、自分を頼りにするのではなく、自分自身を信じて、正しい法を守って伝えていくようにと言われました。
自灯明・法灯明は、自分の心を照らす灯りとして、仏の教えを照らす灯りとして、覚りを求める仏道を歩むことを示しています。️
正直、自覚人になるなら、背景だけわかればその意図は十分にくみ取る事ができます。
誰かの考えや、考察は、人間の想像によるものであり、解釈であるためにぼやけるのは当然です。
お釈迦様は、何を伝えたくて、その言葉を伝えたのでしょうか。
自灯明
自ら照らす時、自ら輝いています。
この事だけで、経験から充分知っているはずですが、人間は考えます。
考えるのではなく、これをそのまま感じれば自ずと答えは出るように思います。
そこに、自分を信じるとか、何にも頼らないという言葉が入り込む余地はありません。
ましてや、自己肯定もいりません。
法灯明
自身の内側から起こる理解は、宇宙の理から起こります。
それを「法」と言います。
その法さえ、「私」自身で在り、「私」が「私」自身の偉大な師匠でもあります。
叡智が法であり、法が叡智なら、それが、物事のことわりを露わに照らし出します。
自分軸も遥か彼方にかすみます。
自灯明・法灯明
個である「自」全体である「法」
これを体現して生きている時、お釈迦様のような生き方になっていきます。
これを語る時、あなた自身の中から答えが現れる事を意図して語る事。
それこそが、自灯明・法灯明を体現する事ではないでしょうか。
現代では、自灯明として、社会に(自身に)貢献し、法灯明から智慧を顕していく。
自覚人は、まさにそのように生きている者です。
自覚人として、挨拶をし、自覚人としてすれ違う・・・
また、自覚人として、みんなが笑顔で生きる社会を顕していく・・・
その様に生きるのが自覚人です。
多分塾生のあの方は「自灯明・法灯明」を知らない(笑)
でも、これを言う。
これが自覚人です。
かくいうわたしも、今、あらためて調べたことなのですが・・・
あえて、仏教の勉強はしませんし、教えようとする事もありません。
しかし、そこで語られることは、リスペクトできるものばかりです。
自覚人として生きていると、お釈迦様やイエスキリストと同じ心持ちになっていくからです。
同じ心持ちであるのに、彼らが言った事をわざわざ勉強し、彼らの言葉に照らしてもらう必要があるのでしょうか?
それこそ自灯明法灯明と言われそうです。
勉強して、考察している文章には、いつも違和感があります。
その理由は察してください。
考察して、わかったような気がしていても、それを現した心持ちを知ることはできないのです。
憶測と、実際に同じ心持ちになる事
どれほど違うか、そこに立ってみない限りわかる事はないのです。
そこに立った時、自灯明・法灯明が、自然に体現されているのです。
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