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「誰も見てないんであります」

明日の言葉(その18)
いままで生きてきて、自分の刺激としたり糧としたりしてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。


ここんとこ、少し「思い出しモード」で、浪人時代のことを2回ほど書いた。

ひとつは、浪人時代がいかに充実していたか、という思い出話。


そしてもうひとつは、駿台予備校の講師の言葉を「明日の言葉」として取り上げた。


今日もその続きみたいなもの。
駿台予備校の別の講師の言葉を取り上げたい。

特に次のネタは思いつかないので「浪人時代の思い出シリーズ」はこれが最後かもw

上の2番目のリンク先でも書いたが、当時(1980年ころだから、40年くらい前)の駿台の講師はまさに多士済々で、どの授業も刺激的であった。

英語の奥井潔師、伊藤和夫師、筒井正明師、濱名政晃師、日本史の安藤達朗師、数学の根岸世雄師、中田義元師、野澤悍師、長岡亮介師、古文の桑原岩雄師、関谷浩師など、想い出に残る講師は駿台にいっぱいいた。

 ※駿台では講師を「師」と呼ぶ習わしがあった。

知識だけでなく知恵まで話を広げて、人生観や哲学を語る教師も多かった。

その言葉たちは、一度受験に失敗して否応なく人生を考えさせられた浪人生たちの心に、砂漠に水が染みこむように吸収された。

浪人というタイミングもあって、心の深いところに届く水となった。


で、今回取り上げるのは、その中でも一番印象が深かった講師である「英語の奥井潔師」が授業中に言った言葉である。

奥井師については、Wikipediaもある。
多くの人に影響を与えた名講師だった。


とはいえ、別に深淵な言葉でも何でもない。
でも、当時のボクにとって、いや、今のボクにとっても、かなり有用な言葉なのである。

その言葉が、これ。


「誰も見てないんであります」




・・・だからどうしたって感じの言葉だけど(笑)、でも「あ、そうか。そうだよな」と当時のボクは深く納得したもんである。

現在のボクも、この言葉をふと思い出しては、「そうだよなぁ」と納得し、他人の目を気にし過ぎている自分とかを諫めるのである。


奥井師の英文解釈の講義は、それはもう絶品だった。
それだけに人気講義で、モグリで受講する人も多く、立ち見はアタリマエだった。

1000字ほどの英文を1時間かけて講義しながら精密かつ文学的に訳していくのであるが、それはそれは完成度の高い授業で、マジで聞き惚れたものである。

この言葉を話した講義は、たしかスポーツに言及した英文についての訳文を作っていたのだと思う。

講義の途中で奥井師は必ず一回は大脱線し、めちゃくちゃ面白い漫談に発展するのだが、その日は「久しぶりにテニスをやったんであります」というお話だった。

それはこんな話だった。
いまでもわりと覚えている。
奥井師の口調をマネしつつ、なんとか当時を再現してみると、たとえばこんな具合。

久しぶりにテニスをやったんであります。
ご覧の通り私ももう老人であります。でも意外とうまいんであります。

こうね、こう、バシッと強い球を打つ。
ネットをギリギリに超える。そしてラインぎりぎりに落ちる。
それはそれはもうみなさんにお見せしたいような美しい球なのであります。(何度か右手でフォアハンドの格好を繰り返す。カッコ悪いうえに美しくないフォームなので笑いが起こる)

ただ、相手が卑怯にも背中側に打つんですな。
私の左に。
卑怯ではありませんか。なぜ正面に打ってこない!(会場笑)

私は日本男児でありますから、相手の背中側になど打たないんであります。
それでもきゃつらは打ってくる。
卑怯です。
ですから、私は(ラケットを左に持ち替える動作をして)こう打つんであります(教室内爆笑)。

左手に持ち替えて打てば良いのであります。
左手で打った方が遠い球でも拾えるし、なにより敵に背中を見せなくてすむのであります。
(右手で打って、すぐ持ち替えて左で打つ動作をカッコ悪く繰り返す。会場爆笑)

アナタたち。そうやって笑うでしょ。
そんなのおかしいって。
恥ずかしいって。

でも、であります。
誰も見てないんであります。
誰もアナタなんか見てないんであります。
ヒトは、アナタが思うほどアナタなんか見ちゃいないんです。

だから、他人に笑われないか、とか、このやり方はおかしいんじゃないか、とかばかり気にして生きるのはつまらないんであります。

あなたの好きなようにやればいいんであります。
球なんか左手で打てばいいんであります。

そりゃ笑う人も少しはいるでしょう。
でも、結局、それほど他人は見ちゃいないんです。
他人なんか気にせず思うようにやったらいいんであります。


・・・こんな文脈だったと思う(なにしろ40年前のことなのでかなり脚色しているが、口調も内容もだいたいこんなことだった)。

そうだよなぁ。
当時のボクは本当に深く納得したのだった。

ボクはとても見栄っぱりな学生だった(と思う)。
他人の目を気にし、自分を他人のモノサシに合わせて生きていたところがある。

でも、冷静に周りを見てみると、確かに、自分が思うほどヒトは自分なんか見てない。見てもすぐ忘れてしまう。

だって、たいして関心なんかないのだ。
単なる他人なんだから。

逆に言うと、よく見てくれる人はすでに親友だ。
自分がやったことを笑ったりせず、理解してくれるであろう。

そうでない他人なんか、どうせ誰も見てないのである。
見ても覚えてなどいないのである。

そう考えてくると、相当自由になれる。
他人の目などそんなに気にせず生きられるようになる。

それ以来、奥井師のこの言葉を何度も反芻した。
そして、他人の目からなんとか自由になろうともがいてきた。
だからこそ、40年後の今も覚えているのである。

今でも「あれ? なんか恥ずかしいことやっちゃった?」と気になることはしょっちゅうある。

そういうとき、この言葉を、奥井師のあの口調で思い出す。

「誰も見てないんであります」

そう、ヒトはあなたのことなんかたいして見てないし、気にしてないんであります。


古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。