「ヒトの評価で自分の価値を決めていたら、一生、つらいよ」
明日の言葉(その23)
いままで生きてきて、自分の刺激としたり糧としたりしてきた言葉があります。それを少しずつ紹介していきます。
くわしくは書けないのでかなりフェイク気味にぼやかすが、ボクの知り合いにちょっと有名だった人がいる。
ずいぶん年上の方で、10年くらい前まではわりと世間に知られた人だった。
ボクはある会合で彼とテーブルが一緒になり、なんとなく流れで二軒目にご一緒したことで仲良くなった。
彼とは利害関係はなかったが、それも理由のひとつなのだろう、それからは何かと可愛がってもらっていた。
彼はサラリーマン人生を上りつめ、会社をいくつか経営するようになった他、メディアにもよく取り上げられコメントしたりしていた。
ニュースなんかにも出ていたので、そこそこ顔も知られていた。
仕事の本もいくつか執筆した。
遊びの方も活発で、現役時代は銀座でブイブイいわせていた。
そして会社を引退し、悠々自適な生活に移った。
うーむ、絵に描いたような人生の成功者だ。
そう思いません?
成功した余裕からだろう、いつも泰然自若としていたし、若手に好かれてもいた。
でも、引退してから彼は豹変したのである。
銀座に行っても昔みたいに迎えてくれないと文句を言う(あんなに贔屓にしてやったのに!)。
元部下たちが遊びに来ないと不満を言う(あんなに引き立ててやったのに!)。
会社の経営に無理矢理口を出す(なんでオレに聞きに来ないんだ!)。
年賀状が来る数が減ったと愚痴を言う(みんな手のひら返しやがって!)。本が数千部しか売れないと泣き言を言う(オレってもっと人気があったよな! なぁ、そうだよな!)。
友人たち(ボク含む)はだんだん彼の愚痴攻撃の被害を受けるようになった。
最初は寂しいんだろうと相手をしていたがそのうち持て余すようになった。
あんなにみんなの憧れの的だったのに、いったいどうしちゃったのだろう・・・。
ある日、共通の友人(女性)と「困ったねぇ」とメールでやりとりしているとき、その友人がこう書いてきた。
「人の評価で自分の価値を決めていたら、一生、つらいよ」
話の前後がわかりにくいのでもう少し長く引用しよう。
かなり手厳しいんだけどw
人気がどうの、昔がどうのとか言ってるうちは、彼にやすらぎの日々はおとずれないね(笑)。
もうこのへんで、そういうのを超越したところに行ってほしい。
今まで持っていたものが全部手からすりぬけてなくなっていく気持ちがするんだろうな。そんなもの、本当に持っていたのかどうかも、大切なのかどうかもわからないのに。
人の評価で自分の価値を決めていたら、一生、つらいよ。
ま、もともと人の評価で自分の価値が決まるサラリーマンだったから仕方ないけどさ。
うーん、いま読み返してもやっぱり手厳しいw
彼女はそうやってバッサリ斬るところがあった。
それが魅力で彼との飲み会にもよく呼ばれてたんだった。
・・・でも。そうなんだよな。
彼は、「人気」「人の評価」「世間の評判」などという、自分でコントロールできないものに価値を置いて生きてきちゃったのかもしれない。
だから、それらを失い始めたことで、自分の存在価値までもが揺らいでしまっているのだ。
サラリーマンの話もよくわかる。
ボクも長くサラリーマンをやったから(25年もやった)。
そう、サラリーマンは日々「人の評価」にさらされている。それを気にして生きている。それによって給料が決まるんだから仕方ない。
でも、それに汲々として過ごしているうちに、いつの間にか「人の評価で自分の価値を決める」ような生き方になってしまってはいないだろうか。
サラリーマンに限らない。
自営業やフリーランスやタレントなんかでも同じかもしれない。
「人の評価で自分の価値が決まる世界」に生きている人たちは、そういう生活を何十年とすることで、「人の評価で自分の価値を決める」ようになってしまいがちだ。
それは引退後の彼の乱れ方で、実感をもってよくわかった。
ちなみに、彼のその後だけど。
数年はかかったが、今はかなり落ち着いている。
「こういうもんだ」と諦めたのかもしれない。あんまり愚痴も言わなくなった。現役時代の楽しい彼に戻った。
ただ、現役時代に彼をチヤホヤしていた人たちとは一人もつきあっていないそうである。全然誰も寄ってこないそうだ。
フラットな関係だったボクたち数人が、彼の数少ない友人として結局残った。
そのこともとても象徴的だなぁ、と思う。
※
同じような文脈の話を以下にも書いています。
よかったらどぞ。