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猫と田中の話

猫は、母猫と暮らしていた。

工場の資材置き場の隅に、センダングサに隠れた住処があった。
大きな車が行き来する工場があり、母猫はいつも注意深く猫に言って聞かせた。

「センダングサを抜けて外には出てはいけないよ」

センダングサの種は猫にとってやっかいだったが、母猫はそのそばには人間は近づかないと思ったからだ

母猫は、毛皮に刺さる種を念入りにとる作業で忙しかった

鼻の上に皺を寄せ、毛先を噛みながら種を削ぎ落としていく

「あなたみたいにくっついて離れないから大変よ」優しい声で喉を鳴らした

子猫は嬉しくなって頭を母猫の足にすり付けるとでんぐり返しして腹を見せた

ある日、お腹を空かせた子猫のために出かけて行った母猫は帰ってこなかった

何日たった頃だろう、寂しさと飢えで猫は辺りが暗くなる頃、はじめてセンダングサをぬけ外に出た

匂いを頼りに痩せたちいさな体でたどり着いたのは飲み屋街だった

細い路地に、押し合うように並ぶ店の灯りが黒く濡れた路面にいくつもの色が混ざりあい滲んでいる

誰も目も止めず、足を止めることもなく人が行き交うその場所に立ち尽くす猫は、路面と同じ色をした毛皮のサビ猫だった

男が立ち止まった

子猫は毛を逆立て、斜めに飛んだ
小さな体は毛でふくれあがり、目を見開き固まったままだ

「あんた汚かね」 

慈愛に満ちた声だった。

男は、ゆっくりと腰を落とすと、巾着袋から小銭を取りだしポケットにねじ込んだ

大きな手でそっと猫をつかみ、大事そうに巾着袋に入れた

「ここは水に合わんね」

男は、酒に酔った体を揺らしながら小さな巾着袋の小さな猫を抱いて歩きだした

田中は、きのうの夜のことは記憶に無かった

目覚めたら、巾着袋から汚い猫が顔を出して死んだように眠っていた

猫の餌を買いに外に出た

土手の下のグラウンドでは少年野球の試合がやっていた

田中は草の上に腰を下ろした

親友からもらったナイキのスニーカーの白が野球少年のユニホームの白と重なり、
田中はぐっときていた。

高く飛ぶボールにも、朝の陽射しに吸い込まれていく歓声にも、ベンチウォーマーにも。

田中はサッカーよりも、野球なのだ。

アパートに帰り、ドアノブに鍵を差し込むと鍵は開いていた。

猫を抱いたレイちゃんが味噌汁の味見をしながら言った。

「こんな可愛いコどこでみつけたのよ」

田中はぐっときていた。

レイちゃんの青いセーターにも、レイちゃんの猫に向けた甘い声にも、大根の味噌汁にも。

田中は、クラムチャウダーより、美人で飾らないレイちゃんが作る、大根の味噌汁なのだ。

レイちゃんが、餌に夢中の猫の、骨だらけの背中についたセンダングサの種を取っていた。

「ささるね」

あの慈愛に満ちた静かな声だ。

センダングサが刺さった毛皮を見ながら田中は言った。

骨だらけの小さな猫が無心に餌を食べる、その背中が、田中の胸にささっていた。

小さな猫が、どっからどうやってここにたどり着いたか、田中は知らない。

猫は、田中の足元に頭をこすりつけると、でんぐり返しをして、満足そうに大きく膨らんだ腹を見せた。

「猫と田中の話」




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